Nobuこと粟田経弘(のぶひろ)の引出しは実に多岐にわたっている。台湾の撮影現場では、流ちょうな華語(台湾中国語)を操りながら、プロデューサー、カメラマン、キャスティング、ラインプロデューサー、編集、美術、時には俳優とその役割を変幻させている。そればかりではない。企業コンサルティング、ソフトウェアの開発、コンサート、イベントや出版の企画と、その守備範囲はさらに広い。Nobuのこの多芸多才の源はいったいどこにあるのだろう。
実は小学生時代からその片りんを示していた。Nobuはサッカー、ミニバスケット、アイスホッケーから乗馬まで、興味を持ったものには一通り手を出した。飽きっぽい半面、好きなものにはとことんのめり込んだ。中学1年から2年にかけては、両親を説得して福島に「牧場留学」もした。乗馬熱が高じた結果だった。馬の世話をしながら、片道10キロの道のりを自転車で通学する日々だった。
高校では器械体操部とファストフード店でのアルバイトを両立させていたが、腰のけがで激しい運動ができなくなってしまった。その後は、動物公園、ガソリンスタンド、イタリアンのデリバリー、家庭教師とさまざまなアルバイトに精を出した。これには家庭の事情もあった。高校1年の途中から一人暮らしを始め、生活の糧を稼がなければならなかったのだ。高校の授業には魅力を感じなかったが、学校を抜け出しては、近くの国立大学や時には都内の私立大学まで遠征して、大学の授業をこっそりと聴講するのが楽しみだった。かなり早熟な少年だった。
レコーディングエンジニア目指して渡米
高校を卒業すると大学には進学せずに、家庭教師先の父親が経営していた建築会社で設計図を引いたり、現場の施工を手伝ったりすることを選ぶ。
Nobuは高校時代からJ-POPや洋楽のコピーバンドを組んでいた。キーボードからギター、ベースまで何でもこなした。建築の現場には音楽が無いということが物足りなかった。どうせ技術を身に付けるなら、音楽と関われるレコーディングエンジニアになりたい。こうした思いが日に日に募っていった。そんな時たまたま出会った元SONYのレコーディングエンジニアの知人に相談すると、日本より米国の方が音楽の環境が良く、より良い技術が身に付くとの助言を受けた。いったん決めたら行動は早い。まずは下見のため10日間だけニューヨークに飛んだ。その日は、あの2001年9月11日だった。
「ニューヨークに着いて数時間後に、同時多発テロが発生しました。市内はパニックになっている人、冷静に行動している人が混じり合い、まるで映画のワンシーンに迷い込んでしまったような感覚でした」
不思議と恐怖感は無かった。それよりも、日本を離れ地球の裏側で新たな挑戦をしてみたいとの思いが勝った。時代が変動する空気を体感したいとの思いもあった。下見を終えていったん帰国したNobuは、その年のクリスマスイブに再びニューヨークに舞い戻った。語学学校には3カ月間通っただけで、音響工学の専門学校に飛び込んだ。教科書には知らない単語ばかり並んでいた。悪戦苦闘しながらも、数カ月後には授業についていけるようになった。
Studio b.p.m.でエンジニアを務める傍ら、施工現場でのかつての経験を生かし、設備屋や舞台の美術関係のアルバイトで食いつないだ。アーティストの村上隆さんのニューヨーク工房kaikai kikiのアシスタント、ジャズサックス奏者ジャッキー・マクレーン・バンドのピアニストのスタジオの改装、10万人野外コンサートの音響技師など、相変わらず興味を持ったことには何でも手を出した。
「面白そうだったらやってみる。自分に合わなかったり、学べるものがなかったりすれば続ける必要はない。こうして自分の経験値を上げていくことが大事だと思うのです。インプットの量が最終的にアウトプットの量に比例するのです」
結局、ニューヨークでは2004年末まで3年間暮らした。Nobuは一度日本に帰国し、資金を貯めてから再び米国の大学に進学するつもりでいたが、大学の学費が大幅に上がり、雲行きが怪しくなった。レコーディングの世界もアナログからデジタルに切り替わり、アーティストが自宅で録音するのが時代の趨勢となっていた。これに反比例するように、レコーディング技師の需要は減少の一途をたどっていた。時代が節目を迎えていた。
