台湾バナナをめぐる攻防戦、台湾総督府vs〈内地〉のバナナ問屋

2019年は、タビオカミルクティーが空前の大ブームとなった。その前には、パイナップルケーキやマンゴーかき氷が人気となるなど、台湾スイーツは日本人の好みに合うようだ。しかし、日本人が最初に魅了された、台湾の甘いものと言えば、台湾バナナだ。

台湾バナナが日本で食べられるようになったのは20世紀の初頭。最初は、台湾と日本を行き来する船の船員がごく少量を持ち込み、港周辺の商店などで販売されていたという。商業ベースに乗せたのは、大阪商船会社基隆支店の都島金次郎という人物らしい。1903年8月27日に基隆港から出航する恒春丸に和尚洲(現在の蘆洲)で採れたバナナ約400キロを積み、神戸まで移送したという。

台中の台湾バナナ市場(Lafayette College Libraries, East Asia Image Collection)
台中の台湾バナナ市場(Lafayette College Libraries, East Asia Image Collection)

その後、日本のバナナ消費は増え続けた。1924年12月には台湾各地の青果物同業組合を統合した台湾青果株式会社が、翌年2月には東京・横浜・大阪・神戸・下関・門司に台湾青果荷受組合が設立された。この2つの組織が設立されたことで、台湾から日本にバナナを移出する安定した環境が整えられたといえる。

こうして台湾の主要輸出農産品となったバナナだが、バナナ熱が高まる<内地>は、必ずしも台湾青果株式会社の設立を歓迎したわけではなかった。なぜならば、台湾バナナは高級品だったからである。1925年7月8日の読売新聞朝刊には、「高いバナナを食わされる内地人 台湾からの移入が全部一会社の手に独占され」との見出しが躍る。

日本のバナナ問屋の中には、台湾青果を通さず、生産者と直接取引を希望する「反台湾青果」派がいた。同記事は、反対派が直接取引をしたバナナを船に積もうとしたところ、台湾総督府に阻まれ、岸壁に積み上げられた480籠(ひと籠は約37〜41キロ)のバナナは腐るのを待つばかりになっていると訴える。バナナ熱の高まりの背景には、バナナでもうけたい台湾総督府とバナナを安く買いたい〈内地〉の攻防があったわけだが、1920年代後半には年間一人36本消費する計算になるほど台湾バナナは〈内地〉の食卓に入り込んでいった。