命がけの過酷な調査

鳥居は劣悪な環境の中で毎日、かんがい用の水源を探しに調査へ出かけた。採用した先住民の青年を先頭に重いリュックを背負い、3000メートル級の山に向かい林辺渓をさかのぼる日々が続いた。「ゲートルをしっかり巻け、氷砂糖を忘れるな、キニーネを飲め」と出発前に必ず鳥居は部下たちに念を押した。毒を持つ蛇が這い回り、風土病が猛威を振るっている地域での調査である。その上に、日中には気温が35度にもなるため、体力の消耗が激しかった。命の綱は、キニーネと氷砂糖だけであった。

忍耐強い調査を2年余り続けた結果、林辺渓の集水区域は、年間降水量が多いにもかかわらず、1キロメートルあたり6メートルの落差があり勾配がきつく、土壌成分の関係で保水力が弱いことが分かった。勾配落差の甚だしい地域に地上ダムを建設することは工事費の面からも土砂の堆積量からも得策ではなかった。効率良く水源を確保するには、どうしたらよいのか、鳥居はデータを眺めてはため息をついた。

ある日、調査データを見ていた鳥居は、乾期に林辺渓が干上がっても川床の下を伏流水が途切れずに流れ、屏東平野の海抜15メートルの地点で湧き水となって出ていることに気付いた。鳥居は興奮して叫んだ。「そうだ、この伏流水を利用すればきっとうまくいく」

鳥居のふるさと袋井には北から南へ太田川が流れ、昔から湧き水の豊かな水郷として知られている。伏流水を水源にすることを思いつくと、地下ダムの設置場所の調査を始めた。地下ダムは見えないところに構築するため、場所の選定が難しいのである。調査の結果、適地を探し出した鳥居は地下ダム工事基本計画書の作成に取り掛かった。翌年の1919(大正8)年に「萬隆農場土地改良計画書」を書き上げ、台湾総督府に提出した。この年は八田與一技師による「嘉南大圳新設事業」が国会に提出され、可決された年でもあった。当時、日本では地下ダムは造られたことはなかった。

地下ダムによるかんがい計画は、実に画期的な環境に優しい工法であった。第一に土木工事の規模が小さく工事費が安く、工期も短い。さらに、地下水は途中の土砂を通る過程でろ過されるので、大量の澄んだ水ができそのまま飲料水に使える。その上、地下に埋められているから蒸発もなく、底部に土砂がたまることもなく、維持管理にも手間が掛からない。動力もいらず、環境破壊もない。住民たちの狩り場や漁場としている清流をそのまま保つことができるので、生態系にも影響が少ない。まさに良いことずくめのエコなダムなのである。欠点と言えば、止水堰の構築場所を決めにくいことと貯水量が地上ダムほど多くないことくらいである。

鳥居は基本計画書を提出すると時を同じくしてパイワン族やルカイ族の村落を回って、頭目に計画を説いて回った。時には勧められるままに頭目の家で酒も飲んだ。親しくなった頭目とは義兄弟の契りまで結んだ。彼らの伝統文化の素晴らしさや、義理人情に厚く、勇敢で純真な人々であることに気付いていた。先住民の言葉も身に付けるなど、現地の人々と信頼関係を築くことに熱心であった。

1920(大正9)年に入ると台湾製糖の本社が高雄から屏東に移転し、東京支社も麹町に設置された。さらに荒蕪地2000ヘクタールの開墾も正式に決定した。

博覧会で金賞

1921(大正10)年6月15日には、高雄州の知事や警察関係者、先住民の頭目らを招き、盛大に起工式を行った。乾期に干上がった川床を深さ7.27メートルまで掘り起こし、堅牢な地盤の上に高さ2.12メートル、幅3.94メートル、長さ327メートルのL字型の止水堰を埋設する工事になった。伏流水を大量に集めるためのU字型集水暗渠を上流の川底を開削し445メートル設置する工事も行った。さらに、止水堰で集められた大量の伏流水は、川岸に造られた大きなマンホール状の貯水槽に貯められ、ここから半円形の土管を使って、総延長57キロメートルの支線、分線を通って128キロ平方メートルの扇状地状の農地に農業用水が行き渡るようにした。止水堰と貯水槽の途中には伏流水量を視認できるように点検用マンホールも設置した。

1922(大正11)年6月には、各水路への通水テストが実施され成功を収めた。また、東京で開催された「平和記念東京博覧会」において台湾製糖の土地改良事業が認められ、金杯を受賞した。人海戦術の結果、工事、開墾に関わった延べ人数は、14万人にも達した。この工事には、信頼関係を構築していた先住民・パイワン族の協力が大きかった。パイワン族の若者たちは、山から下りてきて、5日働いては、2日山に戻るという日程で働いた。工事が終わる頃になると、先住民の生活は驚くほど変わった。かんがい用水が用水路に行き渡るようになると、水路に沿った農地に移動して耕作をする者が現れた。また収入の多い米作りを始める者もいた。工事の賃金が貨幣で支払われたため、従来の物々交換ではなく貨幣が使われるようになった。獲物が捕れなくても、豚肉や野菜を購入できるし、釘、針、農具、ナイフ、布などが人気の商品となった。郵便貯金に励む住人も現れて、近代的な経済観念が広まっていった。