地下ダムの水でサトウキビ農場
1923(大正12)年5月には、全ての工事が完了し竣工(しゅんこう)式が行われた。澄み切った大量のかんがい用水が開墾された農場と周辺農地を潤す様子に人々は歓声を上げた。地下ダムは台湾製糖の山本悌二郎社長の雅号「二峰」から「二峰圳」と命名され、農地は「萬隆農場」と名付けられた。総工事費用は約65万1500円であった。その後、新設された台湾製糖屏東工場では、萬隆農場で育てたサトウキビが原料として利用した。
さらに、鳥居は力力溪の伏流水に目を付け翌年の5月には導水路を完成させた。1926(大正5)年にはかんがい用水路を開墾地まで導入し新たに1万7000ヘクタールの農地を生み出し、「大響営農場」を開設した。その功績で1930(昭和5)年には、台湾製糖の取締役に就任した。翌年には常務兼研究部長に就任するも、眼病を患い55歳で会社を退職し、30年ぶりに帰国して、東京支社の特別参与に就任した。戦争が始まり、昭和20年には東京の自宅が空襲によって全焼、戦後は「農地開発営団」で野辺山開拓村の開設に携わっている途中に脳溢血で倒れ、翌日に死亡した。享年63歳であった。
鳥居が造った地下ダム「二峰圳」は、100年近くたった今日でも、一日当たり雨期なら約12万トン、乾期でも約3万トンの農業用水を供給し続け、屏東平原を潤し地域住民の生活を支えている。屏東の住民は「二峰圳は南部台湾の宝」だと語り、鳥居への感謝の気持ちを忘れることはない。
参考文献
- 平野久美子書 「水の奇跡を呼んだ男」産経新聞社刊 松井嘉和監修 「台湾と日本人」
バナー写真=万年渓景観橋から屏東市を望む(王品翰提供)

