言葉の宝石箱が私を作家にした
日本語力が上達するにつれ、いわゆるJ-POPの曲や一般的なアニメソングにだんだん物足りなさを覚えるようになった。まるで「J-POP用の言葉の倉庫」でもあるかのように歌詞には決まった単語しか出てこないし、使われる文型も概(おおむ)ね「日本語能力試験」旧制三級以内のものに限られている(当時の日本語能力試験は四級から一級まであり、最上級が一級だった)。より豊饒(ほうじょう)な言葉を求める私にとって、語彙(ごい)が乏しいそれらの歌詞はどれも千篇一律(せんぺんいちりつ)、魅力に欠けて味気なく映った。そんな時に出会ったのが音楽ユニット「Sound Horizon」だった。
Sound Horizonの音楽はそれまで見たことのない肥沃(ひよく)な日本語の平野を見せてくれた。当時の私にまだ読めない漢字や熟語、頑張って覚えようとしていた「日本語能力試験」二級と一級の文型が当たり前のように出てきて、一曲ごとに未知の言葉の洪水に見舞われるような歓喜を覚えた。「伝承」「聖者」「歪曲」「冷雨」「黄昏」「遺志」「縊死」「叙事詩」「幾星霜」「杳として」「騙る」「殺める」「麗しい」などの言葉がSound Horizonの歌詞から覚えたものである。
「そんなのいつ使うんだよw」と嗤(わら)われそうな言葉もあるかもしれないが、言葉の宝石箱にはなるべく多くの宝石を集めたいものだ。たとえ歪(いびつ)な形をしていても、一見使い道もなく価値も不明な石でも、時が来れば自ずと月明かりを浴びて静かに煌(きら)めき出す。事実、そんな宝石たちの蓄積があったからこそ私は日本語の作家になれた。
ついでに持論を述べさせてもらうと、例えば「優れた作家というのは誰にでも分かる簡単な言葉でなるべく深いことを表現するもの」みたいな言説があるが、私は同意しかねる。作家というのは広々とした言葉の大海原をのびのびと泳ぐ深海魚、狭くて底が浅い池に入れられればいずれは干涸(ひから)びて死んでしまう。自由に使える言葉は多ければ多いほどいい。「狭くてうまく動けない」よりも「窮屈」が使えた方がいいし、「うんざりして何だか嫌」よりも「辟易」の方がずっと文章が引き締まる。布を織る時に必要があれば高価な金銀糸を使うこともあるように、質感の高い文章を練り上げるのに役に立つと判断すれば少し難しいくらいの漢字や熟語を私は使うのを厭(いと)わない。政治家とかだと世の中を回すための「分かりやすい言葉」が必要かもしれないが、私は政治家などではない。
そもそも「誰にでも分かる言葉」なんてものはありえない。経験上、「誰にでも分かる言葉で!」と声高に叫ぶ人ほど、例えば十年前の私、日本語の読み書きが自由にできなかった頃の私のような人を、端からその「誰にでも」の中に入れていない。そんなまやかしの「誰にでも」よりも、しっかりついてきてくれる読者のために言葉を紡ぎたい。少々珍奇な食材でもそれを調達して手の込んだ料理を作ったのだから、難しいようであれば辞書を片手に消化してほしい。なに、私はあくまで非母語話者だ、難しい言葉といってもたかが知れているだろう。ちなみに、私は今もそのようにして、日々日本語の小説を読んでいる。世の中にはまだ知らない言葉が驚くほどたくさん存在し、私に発見されるのを静かに待っているのだということを実感しながら。
閑話休題、私とともにあの日本語の爆発的成長期を歩んだSound Horizonの音楽なのだが、実は中二病的なコンテンツと目されることが多いらしいことを知ったのは随分経ってからのことだった。奇想天外な設定を作り出しあたかも自分がそんな幻想世界で生きているかのような妄想に浸り、日常的に「刹那」「慟哭」「終焉」「煉獄」「混沌」「レゾンデートル」「ルナティック」「シュレーディンガーの猫」など難しい言葉や概念を多用したり一人称を「我」「余」「妾(わらわ)」にしたり魔法詠唱の呪文を唱えたりといった、いわゆる「邪気眼系」の中二病の存在を知ったのは、言わずもがな『中二病でも恋がしたい!』という傑作アニメのおかげだった。
