「和平宣言」で12年の「監獄島」暮らし
「台湾人左翼勢力内の路線闘争」というのは、1928年頃の国際共産主義運動の「左翼社会民主主義」排撃というイデオロギー路線が、日本左翼陣営経由で左傾化していた農民組合に波及して発生したものである。楊貴が運動組織内で排撃されたのは、農民組合リーダーの簡吉(1903-1951)との個人的な確執も絡んでいたらしい。ただ、農民組合や左傾化していた台湾文化協会にはまもなく台湾共産党(1928年上海の租界で秘密裡に結成)が浸透した。台湾共産党は総督府警察の徹底的弾圧を被ったのだが、それより早く路線闘争で農民組合から排除されていた楊貴は巻き込まれず、植民地にも延長施行された治安維持法による長期投獄を免れた。彼は東京で前後2回、農民組合の活動で8回警察に逮捕されているが、投獄されていた期間は全部で1年に満たなかったという。
ところが、戦後国民党がやってきてからはそうはいかなかった。戦後すぐ台湾の文化復興の活動に乗り出した楊逵は、二・二八事件では夫婦ともに一時逮捕投獄されたが釈放され、その後の知識人虐殺の難を逃れたが、1949年4月上海の『大公報』に国共内戦の停止を求める「和平宣言」という文章を発表したことが時の台湾省主席陳誠の忌諱(きき)に触れて投獄され、1961年までの12年の刑期を監獄島の緑島(火焼島)で過ごした。1950年代に猛威を振るう政治的異見者に対する国家暴力「白色テロ」のとば口で災難に遭ったのである。
台湾近現代史研究会を主宰していた戴國煇さんは後述のインタビューの中で、「楊逵さんは日本の牢屋にも国民党の牢屋にも入ったという意味でユニークな存在」だと言っている。私が「党外」人士の話を聞いて回ったり「選挙観察」を始めたりしていた頃、「楊逵は日本時代には10回捕まったが牢屋に居たのは1年未満、国民党が来たら1回で12年」という言い方を何回も耳にした。国民党による政治抑圧のあり方を批判する一例として、その後も何回も何種類も耳にする台湾人による、日本と国民党(時には日本人と中国人)を対比する「比較統治者」論(人によっては比較植民者論)の一つでもあった。
かつては12年の投獄の災難を招いた「和平宣言」であるが、今は台中にある元の「東海花園」に近いところに据えられた楊氏墳墓の傍らに堂々と石碑に彫られて掲げられている。

