北原白秋に認められ童謡の世界へ
19歳で台北工業学校を卒業すると台湾総督府道路港湾課へ就職した。当時、台北から高雄までの縦貫道路の工事が行われており、本庁と現場を往復しながら測量、設計、施工に携わった。はじめて担当したのが新竹の客雅渓橋であった。人生を語り合う仲になった同僚に誘われ、台北ホーリネス教会で洗礼を受けた。いつしか、まどさんは台湾の地にしっかりと根を下ろしていた。
24歳の時、その後の人生を変える出来事があった。絵雑誌『コドモノクニ』で北原白秋が選者の童謡募集に投稿し、「ランタナの籬(かき)」「雨ふれば」の2編が特選となったのだ。まどさんは、以前から「子どももの」に挑戦したいと思っていた。この想像以上の結果は、嬉しいを通り越し、何らかの確信をつかんだのだろう。初めて書いた童謡が、くしくも将来を決めることになったのである。
子どものための童謡と詩に没頭し、『動物文学』『童魚』など様々な雑誌にも投稿するようになった。白秋門下の詩人、与田凖一から東京に来ないかと誘われるほどに、童謡作家として一目置かれるようになった。まどさんは、それに応えて、自分なりの考え方や人生観をまとめていく。1935年、『動物文学』に散文詩「動物を愛する心」を発表した。
「路傍の石ころは石ころとしての使命をもち、野の草は草としての使命をもっている。石ころ以外の何ものも石ころになる事は出来ない。草を除いては他の如何(いか)なるものと雖(いえども)も、草となり得ない。(中略)だから、世の中のあらゆるものは、価値的にみんな平等である。みんながみんな、夫々(それぞれ)に尊いのだ。みんながみんな、心ゆくままに存在していい筈(はず)なのだ。」(「動物を愛する心」)
この時点において、人間も生物も無生物もすべてのものは平等で尊いという「みんながみんな、夫々に尊いのだ」という生涯を貫く基本理念が出来あがっていることが分かる。
翌年には、総督府を辞め、創作活動に専念する。28歳の時に、水上不二らと同人誌『昆虫列車』を創刊(1939年廃刊)した。ここでも童謡研究を突き詰め、「童謡の平易さについて」「童謡圏―童謡随論一、二」を発表、理論的にもかなり成熟した内容だった。しかし胆のう炎と眼を患い上京は諦めている。
一方、時代は大きく動いていた。同年、中国で盧溝橋事件を発端に日中戦争が勃発。国家総動員法も成立し、1941年には、ついに太平洋戦争へと突入した。台湾でも臨戦態勢を強いられていたのではなかろうか。
そんな合間の1938年、まどさんに、一時の幸せがやって来る。台北州庁土木科へ再就職し、翌年、鹿児島出身の永山寿美と結婚、長男・京が生まれた。しかし、1940年、文学雑誌『文芸台湾』へ詩、童謡、散文詩を発表して以降、投稿数は少なくなっていく。
1942年、ミッドウェー海戦を境に暗雲が漂いはじめる。まどさんの詩も一部は戦争を意識したものになった。同年11月2日、北原白秋永眠。悲しみに暮れる間もなく召集令状が届き、南方戦線に従軍、シンガポールで終戦を迎えた。


