「死に体」となった戒厳令と民進党の結成

前にも触れたように、私は香港誌の『九十年代』(月刊)を購読するとともに、80年代初めからいわゆる「党外雑誌」の『八十年代』系列(康寧祥系)と『前進』系列(林正杰台北市議会議員系)を購読していた。「系列」というのは長期戒厳令下の検閲で雑誌がしばしば発禁処分に遭うので、一つが発禁になっても次が出せるように別の名称の雑誌を当局に登録しておいたからである。これを「スペアタイヤ(備胎)」と称した。

助教授になって初めての夏休みも終わりに近づく頃自宅に届いた『前進』系列の『前進廣場』のページをめくって驚いた。林正杰の「収檻送別」活動の様子が、写真とともに大々的に報道されていた。『前進』主宰者の林正杰は、同誌の報道が国民党高官を誹謗(ひぼう)したとの疑いで懲役1年半の有罪判決を受けたが、林は控訴しないで入獄することになり、その「送別会」を台北の公園で行うと、支持の民衆が街頭に溢れ自然発生的なデモとなってしまった。そして同じ事が、西部平原の各都市で12日間にわたって繰り広げられた。交通整理の警官は出動していたが、当局はこれを取り締まることができなかった。『前進廣場』に掲載されていた写真では、林正杰が何とパトカーの屋根に登ってハンドマイクで演説している様子が写っていた。「戒厳令は死に体になっている」。まさにこの言葉でその写真の光景を受け止めたことを今でも鮮明に覚えている。

(出典:張富忠・邱萬興編著『緑色年代:台湾民主運動25年 1975-1987上冊』台北:緑色旅行文教基金会、2005年、202頁 )(筆者提供)
(出典:張富忠・邱萬興編著『緑色年代:台湾民主運動25年 1975-1987上冊』台北:緑色旅行文教基金会、2005年、202頁 )(筆者提供)

野党結成まであと一歩だった。後で分かったことだが、「十人小組」と呼ばれるようになるグループがすでに密かに新党結成準備を始めていた。この年の12月には立法委員と国民大会代表の「増加定員選挙」が行われる予定であった。「党外」は再び「選挙後援会」を組織し、その候補推薦大会を台北の圓山大飯店で開催したが、その最中に政党結成準備に当たっていた人々が突然「民主進歩党」(民進党、the Democratic Progressive Party: DPP)の結成を提案し、異議無く採択された。林正杰が支持者に見送られて入獄した次の日のことであった。

確かに戒厳令は「死に体」だった。蒋経国は結局新党の存在を容認するしかなく、まもなく関連法令を定めて新規政党結成を制限付きで合法化し、戒厳令も解除するという方針を打ち出した。権威主義体制のいわゆる「ブレークスルー」が台湾でも始まった。戒厳令体制を重要な支えの一つとする国民党一党支配体制に風穴が開いたのである。生まれたばかりの民進党は、準合法政党として86年末の「増加定員国会選挙」に臨んで国内デビューを果たした。

もちろん私も三度目の「選挙見物」に出かけた。1983年に意外な落選に見舞われた康寧祥は立法委員に返り咲いた。台北市議会議員だった旧知の謝長廷は立法院進出をはかったが果たせなかった。一説に「最後の立候補」を訴えた康寧祥に票が集まりすぎたのが落選の一因という。これが中選挙区制において結成したばかりでしっかりした政党組織を持てない「党外」の苦しいところであったと言えよう。

国民党一党支配体制下に野党が結成されたということで日本のマスコミも注目したらしく、帰国すると早速、週刊『朝日ジャーナル』で現代中国研究家の加々美光行氏、共同通信の坂井臣之助氏との鼎談(ていだん)に呼ばれた。その時の私の発言の一部が当時の同誌編集長筑紫哲也氏の目にとまったらしく、掲載号目次下の「今週の紙面から」欄に日本の台湾観に関して「いわゆる経済合作の対象、観光の対象を除いた台湾をどう見るか。そこのレベルの交流が少ない。そのアンバランスはグロテスクでさえあるということを何回も台湾へ行って感じます」との私の発言が引かれていた。