荒野の地下深くに埋もれる旧夢に思いを馳せる
そんな大明宮も唐代の末期には戦火に焼かれて廃墟となり、千年の時の流転を経て荒野と化し、一時期は貧困な庶民が集う街となった。ようやく遺跡公園として整備されたのは2010年のことで、樹々が植えられ、道路が舗装され、各所に説明板が立てられ、一部の建造物が復元された。それでもかつての宮殿は影も形もなく、栄華の旧夢は荒れ野の地下深くの暗闇に思いを馳せて偲ぶしかない。平城宮も大明宮も、その跡地を歩くと似たような寂寥感(せきりょうかん)を抱く。ドラえもんの「タイムベルト」(空間を移動せず時間のみ移動するひみつ道具)があれば、などと想像せずにはいられない。
長安城をモデルに作った平城京は、実に長安城の特徴をよく捉えていた。南北を走るメインストリート・朱雀大路を中心とした碁盤状の道路、都の北部中央に鎮座する宮城、その宮城の南門である朱雀門、更には市場である東市と西市。都の南東に池があるという点までそっくりだ。ただ、長安城がほぼ長方形なのに対し、平城京は北東に大きな張り出し部があった。また、平城京は長さも幅も長安城の半分で、面積は約4分の1である。長安城の朱雀大街は幅150メートルで、平城京の朱雀大路の幅は約74メートル、ちょうど半分くらいだ。幅員100メートルの道路が現代日本には3本あるらしいが、流石に150メートルはない。朱雀大街は道路というより、もはや広場だ。
都の南東にある池だが、長安城のものは「曲江池」と言い、平城京のものは「越田池」と言う。「曲江池」は唐代では随一の名勝地で、美しい皇室庭園があって景色が冠絶し、貴族がよく行楽に出かけていた。科挙に受かった受験生も友を誘っては、よくここで宴をしていた。「曲江流飲」という風流の遊戯がある。これは酒を注いだ盃を池に浮かべ、盃が池の水とともに流れていき、誰かの前で止まるとその人はその酒を飲み干さなければならないというもので、「長安八景」の1つとしても数えられた長安城の風物詩だ。そんな曲江池の賑わいもまた唐代の滅亡とともに没落し、千年の歳月の中で涸れ果てた。今の西安には「曲江池遺址公園」があるが、これは2007年にかつての曲江池の跡地の上に整備された公園だ。「大唐芙蓉園」というテーマパークもある。これは隋の皇帝が「曲」という字を嫌って、「曲江池」を「芙蓉池」に名を改めたという故事に因んでいる。
平城京の南東に配された「越田池」は、残念ながら曲江池ほどの賑わいはなかったらしい。平城京が都として使われたのは僅か70年程度だし、日本は中国から様々な制度を取り入れていたが、何故か科挙制度(と宦官制度)は取り入れなかった。それでも、平城宮跡を歩いていると、曲江池遺址公園で見た景色を思い出さずにはいられない。
大極殿から中軸線に沿って南へ向かうと、風に揺れる芒の海に埋もれるように線路が走っている。踏切を渡ると、復元された朱雀門が眼前に聳え立っている。近鉄奈良線の車窓から見えた風景が脳裏に浮かんだ。そもそも、国の特別史跡に指定され、世界遺産にも登録されている平城宮跡の敷地内を、何故線路が走っているのか。かつての王城の跡地を線路が我が物顔に横切っている様子が、あまりにも不格好だとは思わないのか。しかしこの区間の鉄道は、平城宮跡の発掘よりも前に敷設されたものなので、遺跡が発掘されたからといってもはやどうしようもなかったらしい。とはいえ、平城宮跡を避けるための線路移設工事の話も持ち上がっている。工事の完成はまだまだ先のこと、2060年と予想されているが、移設されると、電車が遺跡を横切り、車窓から宮殿の復元建築が見られるというある意味特異な事態もなくなるだろう。2060年まであと40年。そのとき自分がどこにいて何をしているのか、想像すると気が遠くなるばかりだ。
バナー写真=荒れ野にぽつんと佇む平城宮・大極殿(筆者撮影)





