本書は、著者による1996年米国アトランタ・オリンピックの観戦記を、今年の東京大会にあわせて文庫の新装版として出されたものである。当時、著者は「近代オリンピックは、いま、ゆっくりと滅びの道を歩みはじめたのではないか」と記している。スポンサーとテレビ局に蹂躙されたアトランタ大会の状況は、驚くほど現在と酷似しているのであった。

新たに加筆された「あとがきⅡ」(2020年3月執筆)で、著者は東京大会の取材依頼をすべて断った、その出来事に立ち会いたいという気持ちが湧き上がってこなかったと書いている。〈・・・なぜだろう?考えているうちに、ひとつ、思い至ることがあった。このオリンピックに、開催の「大義」がないからではないか、と。〉もはや東日本大震災からの「復興五輪」でもなければ、「コンパクトでエコロジカルな大会」でもない。ましてコロナ渦に強行する大義があるのか。

1996年はどうだったか。著者には違和感があった。第1回のアテネ大会からちょうど百年の節目に当たるが、なぜアテネではなかったのか。
〈・・・国際オリンピック委員会はアトランタを選んだ。それは、最大の「金主」たるアメリカのネットワークテレビの意向を尊重したためだ。ネットワークテレビが大金の見返りとして要求するのは、アメリカで人気のある競技を最も効果的な時間帯で放送させろ、ということである。〉
巨大スポンサーの意向もある。現地入りした著者は、早々に、大会期間中、コカ・コーラは飲まないと誓いを立てた。

本書は、当時、雑誌に連載した日記形式の文章がもとになっている。全編に通底しているのは、著者の、「現代の権力者としての巨大資本の前にひれ伏した」近代オリンピックに対する醒めた観察眼である。祭典への礼賛と興奮、狂騒から離れた立ち位置で眺めている。

プロバスケットのスーパースターで結成されたドリームチームは、華やかではあるけれど、彼らにとってオリンピックは「最高のプレー」を披露する場ではありえない。「徹底的に商業主義」に染まったカール・ルイスは、100メートルでは出場できず、走り幅跳びで金メダルを獲得するも、往年のカリスマ性は失われている。
開会式に続き、モハメド・アリがバスケット会場に現れ、サマランチIOC会長から失われた金メダルを再授与され祝福されたが、本来ならボクシング会場こそふさわしかったのではないか。〈しかし、サマランチとNBCは視聴者の多いバスケットボールの会場を選んだ。要するに、彼らのやることは、すべてにおいて「理」ならぬ「利」が優先されるのだ。〉
総じて日本の選手団は精彩に欠けた。惨敗した日本女子バレーボールの主砲大林素子や、決勝で敗れた柔道の古賀稔彦、決勝レースまで進めなかったバルセロナ金の岩崎恭子らの姿は、著者の眼にどう映ったか。

当時、著者はこう書いた。
〈現在、あらゆる競技は「テレビ的」であるかどうかで存続の可否を決定されるという悲惨な方向に向かいつつある。外見ばかりで内実の伴わないがらんどうの競技。がらんどうの大会。そうなってしまうのはもう目前に迫っているかのようだ。〉
それが今、理不尽な現実になろうとしている。

新潮社
発行日:2021年6月1日
新潮文庫:471ページ
価格:825円(税込み)
ISBN:978-4-10-123527-1