米国におけるポスト冷戦戦略の策定
クリントン政権が発足した1993年の9月、米国防省は、ボトムアップレビュー(Bottom-Up Review)と名付けられた国防計画の見直しを公表し、ポスト冷戦戦略の姿を明らかにした。(*6) 背景には、冷戦終焉にともなう「平和の配当」、すなわち国防に対する投資の大幅な削減を求める声があった。長年上院で防衛問題に携わってきたレス・アスピン国防長官の下、根本的な見直しが行われた結果、1987年当時約217万人の兵力を擁していた米軍は、1999年までに140万人に削減されることとなった(実際の削減後の兵力は約145万人)。中東と朝鮮半島における紛争を念頭において、2カ所における大規模な地域紛争(major regional conflicts)にほぼ同時に対処することができる兵力を保持するという論理であった。
米国外に展開する米軍兵力についても削減が検討され、欧州およびアジア・太平洋地域にそれぞれ約10万人の前方展開兵力を維持することとされた。このことは、アジア・太平洋地域にとっては意味の大きいことであった。冷戦期を通じて、30万~40万人の兵力を擁していた在欧米軍に比し、米太平洋軍隷下の前方展開部隊はその3分の1程度にあたる10万~12万人であった。これに対してボトムアップレビューが示した前方展開態勢では、欧州とアジア・太平洋地域は同等であり、米軍の態勢上、アジア・太平洋地域の相対的な重要性が増すことになったからである。
この考え方は、1995年2月に公表された「東アジア戦略報告」でさらに具体的になる。前年9月に就任したジョセフ・ナイ国防次官補の名をとって「ナイ・レポート」とも呼ばれるこの報告書は、「1993年における米国の太平洋貿易は、3740億ドルを超え、米国における280万人の雇用を創出している」旨を指摘して、当時順調な経済成長を遂げていたアジア・太平洋地域の経済的な重要性を強調した。(*7) クリントン政権が経済を重視していたこともあり、アジア・太平洋地域の安全保障に対するコミットメントの重要性を経済面から訴えたのである。(*8) 特に日米同盟に関しては、「日本との関係ほど重要な二国間関係はない」として、「米国の太平洋政策における安全保障政策とグローバルな戦略目標の双方にとって基礎となる」ものであることを強調した。また、アジア・太平洋地域に約10万人の前方展開兵力を維持することも確認された。米国として、この地域を重要視していることを明らかにするとともに、冷戦が終焉した後においても日米同盟を重視することを再確認したのである。
米国防省「ボトムアップレビュー」(1993年9月)の要点
- ポスト冷戦期の国防計画(冷戦終焉にともなう国防投資の大幅削減を求める声が背景)
- 約217万人(1987年)の兵力を、140万人にまで削減(実際の削減後の兵力は約145万人)
→2カ所での大規模な地域紛争(major regional conflicts)にほぼ同時に対処することができる兵力を保持 - 欧州およびアジア・太平洋地域にそれぞれ約10万人の前方展開兵力を維持
→米軍の態勢上、欧州とアジア・太平洋地域が同等となり、アジア・太平洋地域の相対的な重要性が増す(冷戦期は、欧州30万~40万人に対し、アジア・太平洋地域は10万~12万人)
米国防省「東アジア戦略報告」(「ナイ・レポート」、1995年2月)の要点
- 米軍のアジア・太平洋地域の安全保障に対するコミットメントの重要性を経済面から訴える
- 「日本との関係ほど重要な二国間関係はない」
- 「米国の太平洋政策における安全保障政策とグローバルな戦略目標の双方にとって基礎となる」
- 冷戦終焉後も日米同盟を重視することを再確認
ナイ・イニシアティブと日米安保共同宣言
米国の「東アジア戦略報告」と日本の「95防衛大綱」は、日米両国がそれぞれの国内において同盟の重要性を認めるという意味をもっていた。次に必要なことは、このことを二国間、特に首脳レベルで確認しあうことであり、また、ここで合意されたことを作戦運用レベルでの協力に深化させていくことであった。言い換えれば、「日米安保共同宣言」(1996年4月17日)および新「ガイドライン」(1997年9月23日)策定のための作業を進めるということである。
日米間において、このための政策調整過程、すなわち「日米同盟再定義」が蠢動するのは、「95防衛大綱」策定を前に「樋口レポート」に向けての議論が行われていた1994年のことであった。8月に公表された「樋口レポート」は、防衛政策の柱として、(1)国連PKOへの積極的参加などを含む多角的安全保障協力のための防衛力の役割、(2)日米安全保障協力関係の充実、(3)自衛能力の維持と質的改善、(4)防衛産業や技術基盤などの基盤的な事項を列挙した。この構成は、広く国際社会全体との関わりから説き起こし、日米同盟に触れた後に自助努力としての防衛力の整備に言及するものであり、当時の防衛政策担当者からみれば違和感のない整理であった。また、湾岸危機・湾岸戦争の教訓を踏まえてようやく国連PKOへの参画を始めた日本にとって、多角的な安全保障という概念を打ち出すためにも説得力があった。
他方、米国における有識者の中には、多角的安全保障協力の項目が日米安全保障協力より先に記述されていることなどから、日本が米国との同盟から離れ、多国間主義に向かっているとの危惧を持つ向きがあった。(*9) ハーバード大学からクリントン政権入りしていたジョセフ・ナイとエズラ・ボーゲル、ワシントンで日米関係を知悉した気鋭の研究者であるマイケル・グリーン、パトリック・クローニンなどのグループはそうであった。グリーンとクローニンは、「日米同盟再定義」と題する論文を発表して、「日本の政策立案におけるすう勢とエネルギーは同盟から離れていく方向にある」と述べた上で、同盟関係における日米両国の役割・任務分担を議論するための包括的な対話を始めるべきであると主張した。(*10) 1994年9月、国家情報会議議長から国防次官補に転じたナイは、直ちにこれに着手する。同年末から約1年間をかけて議論を重ねた上で、日米首脳会談の場で共同文書を発表しようとする構想であった。ナイ次官補の名前をとってナイ・イニシアティブと呼ばれることになった日米間の政策協議である。共同文書の公表は、当初1995年11月に大阪で開催されるAPECサミットの機会を予定していたが、内政上の理由からクリントン大統領が訪日できなかったため翌年に延期された。この間、1995年2月、「東アジア戦略報告」によって米国としての日米同盟に対するコミットメントが確認される一方、日本としても、11月、「95防衛大綱」を発表して米国との同盟を重視する姿勢を明らかにした。
この時期、1995年9月に米海兵隊員などによる少女暴行事件が起きたことをきっかけとして沖縄の米軍基地問題が再び沸騰する。沖縄県には、面積にして在日米軍が占有する施設の75%が集中していた。日米両国政府は、この状況を改善して沖縄に対する基地の負担を軽減するために「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会(沖縄に関する特別行動委員会、SACO)」を設け、基地問題の見直しを開始した。この一環として、日米両政府は、1996年4月15日、市街地に隣接した普天間飛行場の返還に合意する。(*11)
1996年4月17日、橋本龍太郎首相とビル・クリントン大統領は、東京において開催された首脳会談に際して「日米安保共同宣言」を発表した。(*12) 「日米安保共同宣言」は、3つの重要な意味を持っている。第1に、「日米同盟再定義」の成果として、両国首脳が冷戦後の環境においても、日米間の安全保障分野における協力は極めて重要であるという結論を内外に向けて公式に宣言したことである。第2に、防衛協力の分野を、日本の防衛や日米間の技術協力などの二国間協力に限定せず、地域における協力、地球的規模での協力を含むものとしたことの意味も大きかった。冷戦期においては、同盟関係に関する議論の幅は狭く、例えば日本を防衛するための米軍の来援、在日米軍駐留に対する日本の協力といった、二国間の文脈に限られたものであった。この共同宣言は、朝鮮半島の安定化に向けた協力といった地域安全保障に関する問題、さらには、平和維持活動や人道的な国際救援活動などに際する協力を含むグローバルな問題にも言及し、日米協力の分野を広範なものとした。第3に、両国政府に対し、1978年に策定された「日米防衛協力のための指針」(旧「ガイドライン」)を見直すよう命じたことは、自衛隊および米軍の運用面での協力を深化させる上で重要なことであった。
「日米同盟再定義」の過程
| 1994年8月 | 防衛問題懇談会が「樋口レポート」を村山富市首相に提出 (日本の防衛について、国際社会全体との関わりから説き起こし、日米同盟に触れた後に自助努力としての防衛力の整備に言及) |
| 1994年9月 | ジョセフ・ナイ国防次官補就任、ナイ・イニシアティブと呼ばれる日米間の政策協議が開始される |
| 1994年11月 | マイケル・グリーン、パトリック・クローニンが論文「日米同盟再定義」を発表 (日本が米国との同盟から離れ、多国間主義に向かっていると危惧) |
| 1995年2月 | 米国防省「東アジア戦略報告」(「ナイ・レポート」)公表 (米国の日米同盟に対するコミットメントを再確認) |
| 1995年11月 | 日本政府「95防衛大綱」公表 (米国との同盟を重視する姿勢を明らかに) |
| 1996年4月 | 橋本龍太郎首相とビル・クリントン大統領が「日米安保共同宣言」を発表 |
「日米安全保障共同宣言」の要点
- 日米首脳が、冷戦後も日米間の安全保障協力は極めて重要であることを公式に宣言
- 防衛協力の分野を、日本の防衛や日米2国間協力に限定せず、地域や地球的規模での協力を含むものとした
- 1978年策定の「日米防衛協力のための指針」(旧「ガイドライン」)の見直しを命令

