盟友とともにブレイクするまで

©Philippe Quaisse / UniFrance
©Philippe Quaisse / UniFrance

アントニー・マルシアーノは1979年生まれ。映画監督になるまでがなかなかユニークだ。元はフランスのソニーミュージックでアートディレクターをしていたという。その後2007年、28歳のときに友人たちと「My Major Company」というインディーズのレーベルを立ち上げる。今やヨーロッパでは有名な音楽プラットフォームだ。クラウドファンディングで若いアーティストを売り出すビジネスモデルでフランスの音楽業界に革命を起こし、グレゴワールやジョイス・ジョナサンといったスターを生み出したことで知られる。

このように常に音楽と接する傍ら、寸劇や歌詞などを書いていた。その作品を形にするのは、古くからの友人で役者のマックス・ブーブリル。今回の『PLAY 25年分のラストシーン』で主役の「マックス」を演じている。こちらも今やフランスで絶大な人気を誇るコメディアンだが、当時の仕事はまだドラマやCMなどの端役(フランスではCMに有名俳優が出ることはまれ)が多かった。

彼が大ブレイクするきっかけとなったのが、マルシアーノと共同で作ったパロディ風のミュージックビデオだ。表面的には良質のラブソングやポップソングのスタイルを踏襲しながら、歌詞はダメ男の恋愛やセックスをテーマにしたジョークというパターンで、インターネットで配信された動画は爆発的な再生回数を記録した。

大人になったマックスを演じるマックス・ブーブリル ©2018 CHAPTER 2 - MOONSHAKER II - MARS FILMS - FRANCE 2 CINÉMA - CHEZ WAM - LES PRODUCTIONS DU CHAMP POIRIER / PHOTOS THIBALUT GRABHERR
大人になったマックスを演じるマックス・ブーブリル ©2018 CHAPTER 2 - MOONSHAKER II - MARS FILMS - FRANCE 2 CINÉMA - CHEZ WAM - LES PRODUCTIONS DU CHAMP POIRIER / PHOTOS THIBALUT GRABHERR

デビュー作と2作目で味わった天国と地獄

一躍有名になったブーブリルは、フランスの人気お笑い番組に出演し、多くの人気コメディアンと同じく一人舞台の興行で劇場を満員にできるスターの座を一気につかみ取る。こうしてマルシアーノはブーブリルとの共同作業を映画へと広げる構想を立て、脚本の執筆に着手することになる。それが初の監督作品『Les Gamins』(ガキども、日本未公開)だった。

「最初はマックスと一緒に何か書いては作っていただけで、どういう方向へ行くのかは分かっていませんでした。それが思いがけずヒットして、活動がテレビや舞台にまで広がった。じゃあ、次は映画の脚本でも書いてみるかと。もちろん監督をするつもりなんてなかったですよ。自分にはとても手の届かない、特別な人たちに限られた仕事だと思っていましたから」

脚本を書き上げると、ブーブリルの共演者として、有名コメディアンのアラン・シャバに白羽の矢を立てた。その大御所に、監督を誰にするか相談したところ、そこまでやりたいことがはっきりしているなら、他人に任せず、自分でやってみたらどうかと勧められたという。この一言が映画監督としてデビューするきっかけとなった。

マックスの父親役を演じるアラン・シャバと母親役のノエミ・ルヴォウスキー。ともにフランスを代表する名優だ ©2018 CHAPTER 2 - MOONSHAKER II - MARS FILMS - FRANCE 2 CINÉMA - CHEZ WAM - LES PRODUCTIONS DU CHAMP POIRIER / PHOTOS THIBALUT GRABHERR
マックスの父親役を演じるアラン・シャバと母親役のノエミ・ルヴォウスキー。ともにフランスを代表する名優だ ©2018 CHAPTER 2 - MOONSHAKER II - MARS FILMS - FRANCE 2 CINÉMA - CHEZ WAM - LES PRODUCTIONS DU CHAMP POIRIER / PHOTOS THIBALUT GRABHERR

自信はなかったが「何事にも始まりがある」と奮起してメガホンを取ったデビュー作は、160万人を動員する大成功を収めた。すぐに2作目のオファーが舞い込む。前作を大幅に上回る予算の『Robin des bois』(ロビンフッド、日本未公開)。ハンガリーのブダペスト郊外に中世都市の巨大なセットを組み、40人のスタッフと200人のエキストラを動かす、コメディとしては異例の大作だ。しかし興行的にも、映画としても失敗に終わったと振り返る。

「正直自分でも何を考えていたのか分かりません(笑)。よからぬ動機で引き受けてしまった。自分では気が進まない企画だったのに、周囲からはやったほうがいいと言われて、つい…。でも事実、映画を作る上で、いろんな勉強になったのは確かです。半年間、ブダペストという素晴らしい街に暮らせたことも含めて、貴重な経験でした。何よりよかったのは、これからは自分にとって意味があり、語るべき何かがある、そういう映画だけを作ろうと、心に決めるきっかけになったことです」