今も残る不発弾

ツアーの一行は、最後に「大山」と呼ばれた山に向かった。そこが日本軍玉砕の地である。山に登っていくと、白と黒のくいが打ち込んである。ペリリュー島には多くの不発弾が今も残っている。白いくいに挟まれた所だけが安全に通れる道だ。不発弾の撤去作業はオーストラリアと日本のボランティアの手で進んでいるが、戦後70年以上を経ても終わっていない。

「ペリリューの山は近寄れない所ばかりです。危ないから、絶対に列から外れないでください」。 ガイドの声に、一行は少し緊張感を高めた。

大山が米軍に囲まれ、残兵もわずかとなったところで中川大佐は自決した。司令部に対し、最後の電報を打った。その内容は「サクラサクラ」。これから散ること=自決を意味する内容だった。中川大佐は切腹したと言われていたが、米軍の遺体検証によれば、ピストルによる自決だったようだ。米軍がペリリュー島のどこかに埋葬したが、遺骨の行方は分からないままだ。

中川大佐らの慰霊碑の前には、飯ごうや鉄兜(かぶと)が置かれていた。

中川大佐をしのぶ碑文

「本物」感じさせる戦跡の数々

中川大佐率いる守備隊は、飛行場を米軍に奪取され、島の9割を占領されながらも、日中は洞窟に潜み、夜間に行うゲリラ戦で粘り強く戦って持久戦に引き込んだ。太平洋戦線での苦戦が続く中、ペリリュー島の奮闘は広い関心を集め、天皇は11回もの御嘉賞を下賜し、日本から3000キロ離れたペリリュー島はいつしか「天皇の島」と呼ばれるようになった。

戦闘終結後も日本軍の一部は洞窟に隠れ続けた。その数は34人。米軍の施設から缶詰などを盗みながら、終戦後もしばらく抗戦を続けた。戦争は終わったと米軍が説得しても、なかなか耳を傾けようとしなかった。

中川大佐らが最期の地とした山中の石碑

ペリリュー島での戦闘は、日本軍の善戦=米軍の苦戦というストーリーでしばしば語られるが、大きな構図では無謀だったあの戦争の中の小さな善戦を、過度に美談に仕立てようとは思わない。しかし、われわれの先祖が祖国や家族を守ろうと命を賭けて困難な環境で戦い抜いた事実に対しては、深く頭を垂れたいとペリリュー島の戦跡を巡りながら痛感した。

パラオで戦場となったペリリュー島とその隣のアンガウル島には、今なお多くの戦跡が手付かずのままで残されている。パラオ政府はエコツーリズムを重視し、積極的に戦跡ツアーをアピールしてはいない。それがかえって戦跡を昔のままの姿にとどめており、「本物感」を見る者に与える一因になっている。

博物館の展示物にはない生々しい残骸が戦争のイメージを喚起させる。パラオを訪れたならば、日本人としてぜひとも足を運ぶべき場所。それがペリリュー島の戦跡である。

(文中の写真はいずれも野嶋剛氏撮影)

バナー写真:「西太平洋戦没者の碑」に供花される天皇、皇后両陛下=2015年4月9日、パラオ・ペリリュー島(時事)