自学自習の後、人類学を志す

鳥居は1870年4月、現在の徳島市東船場の裕福な商家に生まれた。生来知識欲が強く一人遊びを好んでいた鳥居は、小学校に入っても馴染(なじ)めず、中途退学して以来、高等小学校、中学校の課程を自学自習した。国語、漢文、英語、生物、地理、歴史などの効率的な独学は、後の研究にも大いに役立ったが、幼少期に集団生活を経験しなかったことはマイナス面もあった。成人した鳥居は「私はあまり外出して人と交際することを好まない。この性質から、自ら先輩や友人を訪ねることは、必要でない限り一切しない」と自分自身を語っている。

鳥居龍蔵(提供:古川 勝三)

後に東京帝大理科大学人類学講座初代教授になる坪井正五郎らによる東京人類学会が1886年に発足すると、16歳の鳥居は直ちに入会した。2年後に坪井の訪問を受けた鳥居は、人類学を生涯の進むべき道と決意をする。当時まったく見通しの立っていなかった人類学の研究に懸け、跡継ぎであった家業を捨て92年東京に移住した。

東京帝大人類学教室標本整理係となった鳥居は、坪井の下で本格的な研究を始める。坪井29歳、鳥居23歳のときである。鳥居は坪井の下で人類学を研究しつつ、理科大学では動物学、進化論、古生物学、地質学を、医科大学では解剖学、発生学を担当教授から聴講して幅広い知識を貪欲に吸収した。こうした聴講や実習の研鑚(けんさん)を積んでいる最中の64年7月、日本と清(しん)国との間に戦争が起こり、翌年3月30日には下関にて日清講和条約が結ばれるという大事件があった。その結果、日本は遼東半島と台湾・澎湖島を領有することになる。遼東半島への調査が行われることになり、鳥居は自ら希望して寄付金を募り、初の海外調査を実施したのである。単独で遼東半島に渡り65年8月から12月まで各地を巡って採集調査を行った。ドルメンの発見、遼代遺跡との出合いなど貴重な体験は、25歳の鳥居に極めて大きな影響を与えた。

台湾を領有することになった日本政府は台湾総督府を創設し台湾統治を開始したが、台湾に関する情報をほとんど持っていなかった。そこで総督府は東京帝大理科大学に対し動物、植物、地質、人類に関する4分野の調査を依頼した。当時の日本国内では台湾について首狩りの習慣がある未開の蕃族が暮らす島と認識されており、人類学教室では調査依頼を引き受けたものの台湾行きに名乗り出る者がいなかった。気の毒に思った鳥居が調査を引き受けた。準備などの点で良い条件が提示されたことから、鳥居は当時珍しかったカメラを本格的に現地調査に利用することにした。