差別をせず実力主義のチームを作り、甲子園初出場準優勝に導く
野球は日本人のスポーツと思われていた当時の台湾で、民族など一切関係なく実力ある者が打って走り、点を取って最後まで守り抜ければ必ず勝てるという考えを近藤は持っていた。また選手に必要なのは、野球に対する情熱と身体能力だけだと考え、実力ある者がレギュラー選手になるべきだとも考えていた。
京都の平安中学校が台湾に遠征に来た時、選手の中に3人の先住民族がいるのを見た近藤は「あれを見ろ、野球こそ万民のスポーツだ。われわれには大きな可能性がある」と選手に語り、希望を持たせた。やがて台湾最強チームを作るべく校内の部活動に参加をする生徒を調べ、有望な選手を探し出して野球部に勧誘した。そしてスパルタ式訓練で鍛え、チームを創部3年で台湾代表として全国大会へと出場するまでの強豪へと育て上げた。
当時、中堅手だった蘇正生は語る。「マムシに触っても近藤監督に触るな、とみんなでささやき合うほど怖い人だった。しかし、大変に熱心で、けがなどをした者にはとことん気を配って優しかった。真剣、必死が好きで、いつも体中から熱気が溢(あふ)れているようだった。近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた。差別は一つもありませんでした」と。周囲からは「コンピョウさん」と呼ばれ、親しまれていた。高熱であっても、担架に乗って練習場に来た時には、選手が言葉を失ったという。
バットには「一球入魂」と書き、ボールには「球は霊なり」とも書いた。近藤は「精神野球」と「データ野球」を大事にした監督だった。
初出場の選手にとって甲子園でプレイすることは、夢のまた夢であり、近藤にとっても同様だった。ラジオによる実況放送は台湾の嘉義でも聞くことができた。5万5000人の大観衆が見守る中、「KANO」と書かれたユニホームを身に着けた嘉義農林は、快進撃を続けた。第1回戦は3対0で神奈川商工に、第2回戦では札幌商業を破り、第3回戦も10対2で小倉工業を下した。嘉義市民は流れてくるラジオ放送に熱狂した。弱小だったチームが本土の強豪を次から次へと撃破するのである。
嘉農のエース、呉明捷は連投の疲労で、指の爪を剥がす大けがを負い、中京商業野球部との決勝戦ではボールを連発した。しかし、近藤に「この試合を自分の最後の試合と思って完投させてほしい」と頼み込む。呉の固い決意に感動した近藤と仲間たちは、一致団結して呉の願いをかなえようとする。しかし、石灰を傷にまぶしての呉の奮闘も、相手チームの攻勢には抗し難かった。
その時、チームメイトたちが声を掛ける。「思い切り直球を投げろ。守備は俺たちに任せろ!」「俺たちは台湾の嘉義から来た仲間じゃないか!」。球場の大観衆が驚いて見守る中、呉は歯を食い縛って一球一球、直球を投げ続ける。守りの選手たちは、一球また一球とキャッチするたびに、「いらっしゃいませ!」と叫んでは自分たちを奮い立たせた。その場に居合わせた全観衆を感動させると同時に、遠い台湾でラジオ放送を聴く台湾の人々をも興奮させた。近藤の胸は、頼りなかったメンバーが不屈の闘士に成長した姿を目の当たりにして、感慨でいっぱいになる。
球児たちの一球たりとも諦めない「ひたむきさ」「絶対に負けない」という精神が、球場の大観衆を魅了し「戦場の英雄・天下の嘉農」と称賛を浴びた。
当時、小説家の菊池寛は「僕はすっかり嘉義ひいきになった。日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」と新聞の観戦記に書いている。
決勝戦では、吉田正男投手を擁してこの年から史上唯一の3連覇を達成することになる中京商業に敗れ、準優勝に終わった。

