台湾製漫画の制作に着手

次に海賊版漫画をよく出していた文昌出版社に移り、台湾製漫画を作ることになった。10人から10数人の若手漫画家を育成した。その中にはのちに台湾漫画家として日本でも漫画本をいくつも出版する蔡志忠氏らもいた。

当時、漫画本は市販よりも貸本屋に卸す形態が主だった。国民党統治全盛期だったこともあって、題材は中国の歴史もの、特に武侠(チャンバラ系)が多く、創作漫画の単行本をシリーズで出していった。

若手漫画家らは、題材は中国のものであっても、日本の海賊版が好きで漫画家になった人がほとんどだった。

貸本屋に漫画を卸す一方で、市販には幼いころから親しんでいた日本の世界名作ものの絵本を出すことにした。

1964年には広告会社「国華広告」のコピーライターの求人広告を見つけ、興味を持ったので応募した。日本の電通系で台湾では「国際牌」ブランドで知られていた松下電器が主な顧客だった。

日本語と中国語で筆記試験の後、役員面接では日本語が使われ、西條八十や島崎藤村の詩の話題でひとしきり盛り上がったという。日本統治末期の教育を受けた台湾「本省人」の間では、そうした日本の文学・歴史の教養が共通基盤になっていた。広告会社では松下電器担当室長として激務をこなした。