文人画による日台の交流

漢詩漢文は日本人と台湾人とをつなぐ重要なツールであったが、数々の詩社が誕生し、淡水館で毎月のように書画展が開催された。そのため清朝以来、台湾に根付き発展してきた文人画(日本では南画と呼ぶ)が再び脚光を浴びたと想像できる。文人画を含む中国の伝統絵画は、画面上部の余白に画題にちなんだ漢詩が書かれているように、詩と書と画が不可分の形で発展してきた。

桑田墨荘(提供:川島 正仁)

台湾統治初期の台湾総督府の政策は、日本の文人を台湾に呼び寄せるのに十分な効果があったが、日本国内にもこのころ南画家を台湾に向かわせる事情があった。それは、欧化主義が隆盛し近代化教育が推進された当時、中国古来の「詩書画三絶」(詩・書・画をよくする者は三絶と称賛され、多芸を推奨した風潮)という教養はもはや時代遅れとされ、南画が日本の美術界で著しく衰退していたからである。日本で存在感を失っていく彼らが、台湾で活路を見出そうとしたのではないかとも考えられる。

『台湾近代美術大事年表』(顔娟英編)によれば、1900年に台湾に渡った日本の画家として、桑田墨荘の名が挙げられている。桑田は仁丹の創始者である森下博を弟子にしたという漢方の名医で、大阪では著名な南画家だった。また01年に台湾に渡った河田墨鳳(かわだ・ぼくほう)は、東京で四条派の望月金鳳(もちづき・きんぽう)に師事し、その後、谷文晁(たに・ぶんちょう)や渡辺華山に傾倒する中で元、明の古画の研究を重ねて自ら南画を描いた。彼は、台北の太平町(現在の延平北路付近)に「新東洋絵画研究会」を設け、野間口墨華(のまぐち・ぼっか)や蔡雪渓(さい・せつけい)を育てた。