「高砂文雅集」に見る交流の足跡
1914年11月に台北で刊行された『高砂文雅集』には、このころ台湾を旅したり、あるいは台湾に在住したりしていた日本人画家たちの作品を見ることができる。著名な画家のものとしては、西郷孤月(さいごう・こげつ)の「達磨図」と「幽霊ノ図」、そして冨田渓仙(とみた・けいせん)の「松鶴図」があり、西郷の二作には、東洋大学創設者・井上円了(いのうえ・えんりょう)の賛辞が寄せられている。
西郷は11年2月初旬に台湾を訪れ、11月には台南に写生旅行に出掛けている。一方、井上は11年1月12日から2月18日まで台湾に滞在し、各地で講演を行った。西郷と井上は滞在中のどこかで出会い、西郷の作品に井上の賛辞があるのは、そのためだと考えられる。
ちなみに仏教哲学者の井上は「不思議」研究の第一人者でもあり、迷信を打破する立場から妖怪を研究して「お化け博士」、「妖怪博士」とも呼ばれたが、たびたび「幽霊画」を西郷に注文しており、『高砂文雅集』の「幽霊ノ図」もおそらく井上の勧めで西郷が描いたものだろう。
なお西郷の「達磨図」の所蔵先は、当時、日本人が台北で経営していた旅館「日の丸館」とある。あくまでも筆者の想像だが、旅館の亭主が日本の高名な画家と知り西郷に一筆を求めたか、あるいは橋本雅邦(はしもと・がほう)に才能を見いだされながら放蕩(ほうとう)三昧の果てに流浪の旅に出た西郷が宿賃代わりに描いたか、そのいずれかに思えてならない。その後西郷は中国に赴く予定だったが滞在中にマラリヤにかかり、結局、台北が終焉(しゅうえん)の地となった。
日本の南画家は、江戸期の与謝蕪村(よさ・ぶそん)がそうであったように、主として南宗画の王維、米芾(べい・ふつ)、文徴明(ぶん・ちょうめい)らの作品を臨模(りんも)する過程で中国絵画史の展開を理解し、絵画の表現を身に付けていったが、おそらく海を渡った日本の画家たちも、清朝文化の名残をとどめる台湾において、詩書画に通じる文人との交わりから研究を重ね、画境を深めていったものと思われる。
なお『高砂文雅集』には、来るべき時代の美術を予告するような、竹笠をかぶる少年が水牛にまたがり悠々と歩く台湾の農村風景を描いた台北の歌川豊山(うたがわ・ほうざん)の作など、実景を描写した作品が何点か含まれている他、巻末には台湾総督府高等女学校、台北第一小学校、台南小学校らの生徒の静物画も収録されており、当時の美術教育を知る貴重な一次資料にもなっている。
バナー写真=呂壁松「山水」と新井洞岩「一鳥不啼山更幽」(提供:森 美根子)
