戦後37年間、嘉南の人々に守られた八田與一の銅像
1930年5月、嘉南大圳(かなんたいしゅう)の心臓部である烏山頭ダムが完成し、15万ヘクタールの大地に「神の与えし水」が満たされ、世紀の大事業が終わった。技師の八田與一は再び台湾総督府に復帰することになった。烏山頭の従業員も新たな職場に異動し、再び集まることはないはずである。苦楽を共にしてきた10年間の歳月がいとおしく、別れづらかった。
「何か記念になるものを残しておきたい」。従業員の中から自然発生的に声が上がった。「そうだ、八田所長の銅像をつくって、起点に置こう」
固辞していた八田は「台の上から見下ろしているような像にだけはしないでほしい」という条件を付けて同意した。
発起人総代は機械課長の蔵成信一がなった。従業員からの寄付と校友会からの贈呈分を合わせると、1779円にもなった。現在の価値にすると800万円ほどであろうか。銅像の制作は東洋のロダンと呼ばれた彫刻家・朝倉文夫に師事した都賀田勇馬に1200円で依頼した。起点に腰を下ろしいつも頭髪を触りながら思索する姿の銅像が、31年7月8日、烏山頭に運び込まれた。
時は流れ、日本の戦局が悪化すると、金属類供出令による銅像や釣り鐘の供出が行われた。八田の銅像も例外ではなく、烏山頭から姿を消した。
45年8月15日、戦争はポツダム宣言の受諾により終わり、台湾は放棄されることになった。八田の銅像は供出後、行方不明のままだった。ところが偶然にも台南市内の闇市で、かつて八田の部下だった坂井茂の息子が見つけて父親に伝えた。坂井は、すぐに嘉南農田水利協会に連絡した。銅像の無事を喜んだ水利協会は、直ちに買い取り、番子田(現在の台南市隆田)にある協会倉庫に運び込んだ。日本人の銅像や神社が撤去される時代である。銅像の存在が発覚するのを恐れた水利協会は、夜陰に乗じて烏山頭に運び、かつての八田家のテラスに置いた。ところが、台南神社の神馬の尻尾が切り取られ売られるという事件が起きた。心配した水利協会は、ダムの管理事務所の地下室に銅像をしまい込み、以後30年余り封印した。
75年、水利協会は、銅像を再設置するための許可願を政府に提出したが、日本との国交断絶という煮え湯を飲まされたことが影響したのか、「不許可」だった。その3年後、再度許可願を提出したが、無回答だった。黙認と考えた水利協会は万一、銅像が壊されても再度作れるように型を作り、今度はそれを地下室に隠した。八田の銅像は81年に台座を付けて元の場所に再び設置された。烏山頭から姿を消して37年が経過していた。嘉南の人々は、苦労して八田の銅像を守り抜いたのである。