村上春樹の作品にも『源氏物語』を踏まえた場面が
魅力的な主人公と関わる人々も、例外なく個性的である。例えば、末摘花(すえつむはな)と呼ばれる女性は、天皇の孫娘という高貴な生まれなのに生活は貧しく、鼻も赤かった。末摘花は本来は植物の名前で、赤い花を咲かせる。日本語で「花」と「鼻」は同じ発音をする。三角関係や、その結果として「罪の子」が生まれるなど深刻な悲劇が目立つ『源氏物語』の中で、鼻の赤い姫君である末摘花は喜劇の中心となって、読者に明るい笑いを提供する。このような個性的な人物が、何十人も登場している。
『源氏物語』には、一度読むと忘れられない数々の名場面がある。例えば、光源氏の若い妻が浮気に走る。その浮気相手の男から来た手紙を座布団の下に隠しておいたのに、光源氏に発見されてしまう。「隠し損なった恋文の露顕(ろけん)」という場面構成は、その後の文学作品にしばしば踏襲されている。
このように、『源氏物語』を読んだあとで後の時代の小説を読むと、この場面は『源氏物語』のあの巻のあの名場面を下敷きにしているな、と気づくことが多い。その意味で、『源氏物語』は日本文学の百科事典だと言える。現在、世界的な人気を誇っている村上春樹の『海辺のカフカ』(2002年)にも、『源氏物語』を踏まえた場面がある。
『源氏物語』で注目すべきは、人々が会話によって文明批評や社会批評に熱中する場面があることだ。例えば、「男たちから見て、理想の女性とはどういうものか」を語り合う場面がある。また、光源氏が六条院で幸福な日々を満喫する巻では、「物語は何のためにあるのか」を、物語の登場人物である光源氏たちが議論している。
11世紀の初めに書かれた『源氏物語』に、「文明批評」の水準に達した評論が挿入されているのは、この時代に日本文化が大きなピークに達していたからである。その文化は「みやび」と呼ばれるが、宮廷社会で男性貴族と知的な女官の会話が生み出した優雅さと、彼らの辛辣(しんらつ)な人間観察とが合体して、批評精神となった。『源氏物語』を読むと、生きるとは何か、人間とは何かという批評意識が自然に芽生えてくる。
名場面をテーマにして数々の優れた美術作品が誕生
『源氏物語』の主題は、生きることの喜びが、いつの間にか、生きることの哀(かな)しみ、人を正しく愛せなかった絶望へと変わってしまう運命の皮肉さだと思われる。「そのような主題は、世界中のいかなる時代の小説にも見られるではないか」と質問されるかもしれない。その通りである。けれども、絶世の美貌と、あらゆる芸術的な才能に恵まれた光源氏ですら、愛する女性を幸福にできず、自分自身も苦しんだという結末は、読者の心に大きな感動と余韻を残す。この感動の大きさと純粋さこそが、『源氏物語』の最大の魅力だろう。
『源氏物語』は千年以上も人々に愛されたので、文学以外の芸術の領域へも影響を与えた。中でも、美術の世界には深く浸透した。この物語を描いた絵巻や屛風(びょうぶ)には、優れた美術作品が多い。鑑賞する人は、描かれている宮廷行事や、人物や、季節や、風景によって、「あの巻の、あの場面だな」と推測できる。絵画を眺めているうちに、11世紀の物語の中に入り込み、美しくも哀しみに満ちた登場人物の人生を追体験できる。
『源氏物語』を読んだことがなくて、絵巻や屛風を見た人は、「ここに描かれている魅力的な世界は、どういうものなのだろうか」と興味が湧き、『源氏物語』を読んでみたいというモチベーションが高まるだろう。
『源氏物語』の世界へ、ようこそ。この物語には、日本文化の全てが、百科事典のように、あるいはデパートの陳列棚のように、詰まっている。そのどれもが魅力的で、現代人が手にとって現代社会で役立ててくれることを待ち望んでいる。
バナー写真=「源氏物語 須磨・松風図屛風 右隻」(学習院大学史料館所蔵)。左側の人物が光源氏。都をしのびつつ、悲しい思いを胸に須磨の海を眺めている。控えの部屋では、従者たちがいかにも所在なげである。
(*1) ^ 新古今集に収録されている和歌「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」は、源氏物語の「明石」の章の中で記述された「なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる陰どもなまめかしきに」を踏まえて詠まれた。