王詩琅さん宅訪問

その後もう一度台湾大学の助手室に呉密察さんを訪ねると、彼はやおらデスクの受話器を取り上げ、どこかに電話して「若林正丈が来た」と中国語で言った。電話はまだあの黒いダイヤル式のヤツだった。その後は台湾語になってしまったので何のことか分からなかったが、通話を終えると、王詩琅さん(1908-84年)にアポをとった、これから私を連れて市内の萬華は汕頭街の王さん宅を訪ねる、という。

王詩琅さん、1973年台中市、台湾省文献委員会にて(筆者撮影)
王詩琅さん、1973年台中市、台湾省文献委員会にて(筆者撮影)

王さんには1973年の初めての訪台の時、台中の台湾省文献委員会の一室でお目にかかっていた。これも葉榮鐘さん宅訪問と同じく河原功さんが引き合わせてくれたのだった。王さんについては、私は台湾総督府警察編纂の記録に「台湾黒色青年連盟員」として名前が出てくることで知っていた。戦前はアナキズムにも染まったことのある台北の文学青年だったのである。戦後は省文献委員会に勤務するとともに、『台北文物』や『台湾風物』といった雑誌の編集や健筆を振るっていた。当時、河原さんや東大中国文学科大学院に進んで台湾文学研究を始めた松永正義さん(後に一橋大学)に紹介されて、王さんの日本統治期台湾文学運動史に関する論文も読んでいた。

王さん宅に着くと、呉文星さんがいた。呉さんは当時台湾師範大学歴史学博士課程の院生だった。彼は当時日本植民地統治期の師範教育の研究をしていて、後にそこからさらに視角を拡げて植民地統治下台湾の社会エリートの変遷に目を付け、清朝期の伝統的紳士・富豪から学歴エリートへと同じ階層でバトンが渡されていったことを論証した、これも記念碑的作品となる(*1)。

他に、常連客らしい王さんの同年輩の友人も来ていて、その内の一人は戦時期に中国に渡って抗日戦争に参加したことがある人だという。私はその人に興味を感じて当時のことを尋ねようとしたが、台湾語には日本語と同じ発音になる言葉がいくつもあるんだよ、という話をされてはぐらかされてしまったのを覚えている。そんなこんなで王さんとどんな話をしたのか、残念ながらほとんど覚えていない。

なお、大分後になって知ったことであるが、汕頭街の王さんの家と70年代「党外」のスター政治家だった康寧祥氏の家とが細い路地を隔てただけのお隣さんだった。康氏の回憶録(陳政農編撰・康寧祥論述『台湾、打拼—康寧祥回憶録』台北:允晨出版、2013年)によれば、青年康寧祥はよく窓越しに王さんと台湾語で話をし、彼から日本統治期の台湾史の人物に関するあれこれを耳学問したという。「台湾史の生き字引」と言われた王さんの知識は、呉密察さん、呉文星さんなど当時の学者の卵を通じても、また康氏のようなオポジション(対抗勢力)政治家を通じても、後世に伝わったと言えるかもしれない。