民生西路の洋食屋「波麗路」
それから数日後に呉密察さんからまた連絡があって、台北市内の大稲埕という地区にある民生西路の「波麗路」(ボレロ)というレストランに連れて行かれた。若林というのが来たというので、王詩琅さんが台北の日本留学経験のある本省人知識人に招集をかけてくれたのだという。王さんはこの時もう十分な体調ではなかった。今から思えば誠にありがたいご厚意であった。
呉さんによれば、「波麗路」は1930年代からあり、台湾人(日本時代は「本島人」、戦後は「本省人」)インテリのたまり場になっている、知る人ぞ知るという店だった。インテリアもメニューもタイムスリップしたようなレトロな感じで、とても印象に残り、今日まで思い出したように数回足を運んでいるが、雰囲気は変わっていない。植民地時期の台北市内では、いわゆる「城内」が日本人地区であったのに対して、王さんの住む萬華と大稲埕は「本島人」地区だった。王さんも日本時代からの台湾人の伝統に従ってこのレストランを選んだのかもしれない。
昼食会に集まって下さった方は7、8人だったと思う。もちろんその時は王さんから皆さんの紹介をいただいたのだが、残念ながらまた失礼ながら、お二方しかお名前を記憶していない。その後も何かとご指導いただいた林明徳さん(師範大学歴史学科教授)と鄭欽仁さん(台湾大学歴史学科教授)である。林さんは日台関係のことを話されたとおぼろげに記憶するが、鄭さんのお話は衝撃とともに鮮明に覚えている。彼はいきなり「僕は署名を拒否したんだ」と強い口調で言った。日本語である。「署名」とは、「美麗島事件」で弾圧の対象となった「党外」人士を「暴力分子」として糾弾する大学教授連名の新聞広告への署名である。いうまでもなく国民党がお膳立てしたものであるが、鄭さんは圧力を伴ったであろうその勧誘を拒否した、というのである。
美麗島事件とは、1979年12月10日の世界人権デーに当時のオポジション「党外」勢力の美麗島雑誌社が高雄で主催したデモが取り締まりの官憲と衝突となり、事後に当時現場にいなかった人も含めて「党外」勢力の大逮捕に発展した台湾現代史上の一大政治事件である。後で知ったことだが、私が台湾に滞在した頃には、検挙された「党外」活動家を裁判にかけるための「予審」が始まるところであった。当時の台湾は、多数の人々が声を押し殺しているような、静かな緊張の中にあったのである。
それに比して、久しぶりの台北を味わいつつあった当時の私はあまりにアッケラカンとしていたのかもしれない。70年代末から私は香港の月刊時事評論誌『九十年代』の購読を始めていて、同誌の、国民党筋とは異なる台湾政治動向の報道には必ず目を通していた。日本のメディアはほとんど台湾の事情を報道せず、もちろんインターネットもなく、やっとファックスが普及し始めた時代であるが、台湾の政治情勢の大枠は自分なりに承知していたはずであった。
だが、当時の自分の感覚は台湾の状況からはいまだかけ離れたものであった。鄭さんが強い口調で述べた反抗の姿勢は、その時の「波麗路」の雰囲気も相まって、私に自分が美麗島事件直後の台湾に来ているのだということをまざまざと意識させたように記憶している。これはわたしの「アッケラカン」を切り裂く、一つのショックだった。
1980年2度目の訪台、私にとっての衝撃はまだ続く。それらが重なって、私にとっては、ショックによる現代台湾政治へのオリエンテーションとなったのであった。
バナー写真=筆者(野嶋剛撮影)
(*1) ^ 呉文星『日據時期台湾社会領導階層之研究』(台北:正中書局、1992年。後「日據」を「日治」を変更して、2008年、台北:五南出版より再版。また、2010年、財団法人交流協会より所澤潤監訳『台湾の社会的リーダー階層と日本統治』と題して邦訳刊行)

