島の伝説と歴史

そんな絶海の孤島・与那国島だが、1510年琉球の侵攻により、琉球王国の版図に入った。1609年の薩摩藩による琉球侵攻以降、与那国島の島民は薩摩に対して納税せざるを得なくなった。悪名高い「人頭税」が施行されたのがこの時期で、この苛酷な税制で島民はかなり追い詰められた。島では今も人頭税廃止の記念碑が建っている。

この人頭税をめぐって、悲しい伝説がある。人頭税は人口に応じて課された税なので、人口が増えれば税負担も上がる。税金に苦しむ島民は、島の人口を減らそうとした。彼らは島の妊婦を集め、島の西北にある「久部良バリ」という名の断層を跳ばせたのだ。その断層の裂け目は全長20メートル余りで、幅3~5メートル、深さ7~8メートルくらいである。身重の体の女たちの多くは転落死したと思われる。たとえ裂け目を飛び越えられたとしても、大けがで流産必至だったのだろう。また人桝田(とぅんぐだ)という場所もあった。その田んぼでは時々緊急徴集の銅鑼や法螺貝が鳴らされ、その音を聞くと村の男たちは田んぼまで走っていかなければならない。制限時間内で駆けつけられなかった男は、労働力にならないと見なされて処刑されてしまう。これらは伝説だが、実際に起こっていた可能性が大きいのではないかと思われる。15世紀には原始的な生活を送っていた島民がここまで追い詰められたと思うと、苛酷な政治は虎よりも怖い、という孔子の言葉を思い出さずにはいられない。

悲しい伝説がある「久部良バリ」。写真では分かりにくいが、実際には裂け目の幅がかなり広い(筆者撮影)
悲しい伝説がある「久部良バリ」。写真では分かりにくいが、実際には裂け目の幅がかなり広い(筆者撮影)

その後、1870年代の琉球処分によって、与那国島は大日本帝国の一部となった。日清戦争後に台湾も大日本帝国の領土に入り、111キロしか離れていないこの二つの島は盛んな人的・物的交流を開始した。与那国島の人々は、進学先、就職先、食料や生活物資を帝国の内地よりも、至近の台湾島に求めたのだ。しかしいざ敗戦すると、大海原にいきなり国境線が引かれ、それまで与那国の人々の生活を支えていた台湾との海上貿易は一夕にして違法な密貿易となった。沖縄と共にアメリカの占領下となった与那国は十分な物資が与えられず、台湾との「密貿易」を続けるしかなかった。島民からすれば、勝手に国境線を引かれてとてもたまったものじゃない、ともどかしい気持ちになるのではないかと想像する。

このように、時々の権力者の方針や国々の勢力に翻弄されてきた与那国島の歴史を紐解くと、琉球王国よりも一層悲壮感が増す。では今の時代は、この島の人々にとっていい時代なのだろうか? そればかりはよそ者の私には分かりようのないことである。

「日本最後の夕日が見える丘」で見た夕日(筆者撮影)
「日本最後の夕日が見える丘」で見た日没の光景(筆者撮影)

バナー写真=「フェリーよなくに」の外観(筆者撮影)