初めての学問的(?)台湾政治分析を発表
帰国してから、前述のように筆名で時事通信の『世界週報』に報道記事を書かせていただいたのだが、さらに翌年中国研究所の『中国研究月報』1984年9月号に「台湾における選挙と民主化」と題する文章を書かせていただいた(後に『海峡 台湾政治への視座』研文出版、1985年に収録)。文献根拠の注もつけて「開発志向の権威主義体制」などという概念も借用して分析しているから、論文とは言えなくても研究ノートくらいのものにはなっている。これが、私の台湾政治研究の処女論文だといえるだろう。
「歴史情結」の「政治哭調」(歴代外来政権に抑圧されてきたのだという本省人の「歴史情結」の感情を台湾語で哀感こめて選挙演説で訴えること)だの、「民主假期」(長期戒厳令下選挙の時だけわずかに取締が緩む「民主」のための戒厳令の休日)の「鶏骨頭遊戯」(支配政党国民党が食べ残した鶏の骨を「党外」が奪い合うのが現実の選挙の構図だという「党外」勢力の自嘲)だのといった、当時の台湾政論誌を彩っていた用語を解説しながら、美麗島事件以来の選挙政治を分析したものであった。
前者は前記康寧祥の「三度目の運命の転換点」という言い方の背後にある、国民党の公式中国ナショナリズムにおさえられていた本省人の歴史観(国民党が言う「地方意識」)が選挙キャンペーンに露出してしまっていることを示しており、後者は、国民党がメディアを握り圧倒的な組織力を持つ中選挙区制度の下で、そもそも規模が小さいオポジションの政治空間に参与爆発が起これば、当然同士討ちになることを自嘲的に語る用語法である。これが当時まだまだ「党外」の代表的存在であった康寧祥氏が落選し、台北市の国民党が「セブンアップ」を誇る背後にあった政治の構図であった。論文の出来は別として、巧まずして台湾の固有の地域的コンテキストにも言及した「権威主義的選挙」の分析になっていたと言えるかも知れない。
その後も続けた「選挙見物」
台湾現地の政治用語も解説できるようになって、同時代の台湾政治研究に注力し始めた私もこれでようやく「状況に入れる」ようになったと言えるかもしれない。
こうして私の台湾「選挙見物」が始まった。「見物」と言い始めたのはしばらく経ってからだが、平素は日本で入手可能な新聞や雑誌記事で動向を追い、機会があれば、特に選挙の時に一週間ほど講義を休ませてもらって台湾に出かけて、行けるところに行き、会える人に会って話を聞いた。それも別に質問項目をしたててインタビューをして記録を残すということでもなかった。最近の学者がやっている系統だったフィールドワークと比べれば「見物」とでもいうしかない程度のものだった。また、当初は公的研究資金を申請するということは思いもつかず、選挙を見に行ってはどこかに書かせてもらって幾ばくかの原稿料を稼ぎ、それを次回訪台の経費に回す、というやり方をしばらく続けていた。公的資金で自分の研究経費の一部がまかなえるようになったのは、90年代初めに猪口孝・東京大学教授の「東アジアの国家と社会」の科研プロジェクトに入れていただいたのが初めてとなった。
こんな「選挙見物」であっても、戒厳令下での台湾の民主化の足音を聞くのはわくわくするような体験だったのである。
バナー写真=「自決」の「決」の文字が透けて見えるように消した旗(筆者撮影)

