僻地に赴任した一人の巡査
森川清治郎は1861年、神奈川県に生まれた。本籍地は久良岐郡戸太町字戸部266番地(現在の横浜市西区)。1897(明治30)年に台湾へ渡ったとされる。巡査となったのは同年5月4日で、6月3日には台南州に赴任し、打猫(現在の民雄)、大埔林(同じく大林)、新巷(同じく新港)などを経て、1900(明治33)年8月に東石の鰲鼓(ごうこ)派出所に着任した。
森川は身長155センチと小柄だったが、立派なあごひげをたくわえ、威厳を保っていた。一人息子である森川真一は「胸に達するほどのひげだった」と語っている。人々も「髭鬚(ひげ)大人」と呼んでいたという。一方で、誠実な人柄でも知られ、村人の信用を集めていた。後に出てくる李九という人物は、「鬼でも逃げ出してしまいそうな風貌で、怒鳴られでもしたら、縮みあがってしまいそうだが、実は一度も怒ったところを見たことがない」と語っている。
当時、台湾統治の末端は警察官が担っていた。治安の維持のみならず、衛生管理や各種命令の伝達、政策の執行など、多くの職務を兼ねていた。さらに、農業指導、道路の補修や敷設に伴う労役管理、各種調査、職業訓練、浮浪者の収容などもあって、多忙を極めていた。
副瀬村は半農半漁の寒村で、住民の大半が文盲だった。森川は教育の重要性を強く感じていたようで、廟に「寺子屋」のような書房を設け、自らが教師となって読み書きや算術を教えた。
また、栄養状態が悪く、疫病が蔓延(まんえん)しやすい土地だったので、衛生観念を人々に植え付けることを不可欠と考えたようである。病に罹(かか)る者がいれば、薬や医者の手配をし、時には、森川自身が治療にあたることもあった。
台湾西部の沿岸部は塩害が深刻で、「鋤鍬(すきくわ)さえ錆びさせる」と言われるほどだった。これが生活苦の根源となっていたのは言うまでもない。特に森川が赴任した年は冷害や干ばつなどもあって、状況はさらにひどかった。これを乗り越えるべく、森川は農法を研究し、自身が泥まみれになって、人々と共に試行錯誤を繰り返した。
森川の人柄を物語るエピソードはいくつか残っている。同僚が宴に誘っても、「貧しい村人がいるのに、自分たちだけ贅沢をすることはできない」と固辞していたとか、地主などが「お歳暮」を持参すると、森川はそれを貧しい村人に分け与えようと提案したなど、枚挙にいとまがない。
このようにして、森川は村に溶け込んでいった。当時、人々は日本語を解さず、森川も台湾語を話せなかったはずだが、その使命感と生きざまは伝わっていたようで、人々に慕われていった。
転機と悲劇~苦悶する巡査の結末
しかし、間もなく、転機が訪れる。1902(明治35)年、台湾特別会計法の改定があり、漁業税の徴収が決まった。竹筏(竹を並べ、結んで造った筏)にも税が課され、これは村民の生死を左右するものだった。
当然ながら、人々は涙ながらに森川に税の軽減を懇願したという。森川はこれを受け、一週間かけて村人の生活状況を調査し、当時の嘉義庁東石港支庁に出向いた。そして、集落の現状を伝えた上で、軽減を上申した。
しかし、これが曲解されることとなった。税の徴収を任務に含む巡査が総督府の政策を批判したとされてしまったのである。森川は村民を扇動したと叱責され、戒告処分を受けてしまう。
これは森川にとって耐えがたい屈辱であったに違いない。また、村の状況を熟知している身として、人々に結果を伝えることは、何よりも辛かったと思われる。この時、人々は森川の声色や表情に言いようのない不吉な予感を覚え、森川の傍を離れなかったという。
そして、1902(明治35)年4月7日、運命の日を迎える。森川は誰もいない慶福宮という廟を訪れ、自己の潔白を晴らすべく、村田銃の引き金を引いた。享年42。亡骸(なきがら)は廟の脇にあった墓地に葬られた。

