1945年3月1日の大規模無差別爆撃

韓内児科診所は民権路二段299号に位置するクラシックな西洋建築だ。白亜のファサードの下部はガジュマルの緑葉でこんもりと覆われ、枝葉を刈り込んで造られた、大きく丸みを帯びた緑のハートマークが来訪者に安らぎを与えてくれる。

だが韓家とこの建物には、忘れ得ぬ傷ましい記憶が染みついている。

1945年3月1日。張維斌著『空襲福爾摩沙』(前衛出版)によると、この日アメリカ第5航空軍指揮下の大型爆撃機「B-24 リベレーター」25機が500ポンドの爆弾により台南市街地を爆撃。その後16機の同爆撃機が500ポンドの焼夷弾を投下し、台南市街1073棟の家屋が全焼または全壊の憂き目に遭った。

韓石泉氏の記述によれば1944年10月の台湾沖航空戦以降、台湾の制空権は米軍に握られ空襲は日常茶飯事となっていたが、台南はこの前日まで大規模な無差別爆撃を経験しておらず、市民の多数が疎開せず市内にとどまっていたため、犠牲者の数も多かった。

この日は二度の空襲警報があり、二度目の警報を受けて韓石泉氏が動員先の和春医院に出かけた後、爆弾が韓家の自宅兼医院を直撃した。家族や職員はその直前に防空壕に入っていて無事だったが、女子救護隊の一員として活動に向かった長女・淑英氏の安否は知れなかった。三、四時間後、韓医院は焼夷弾による火の手に呑み込まれ、灰燼に帰した。

家族たちはその日の夕暮れ、着の身着のままで郊外の本淵寮へ疎開して行った。燃える市街を背に夜通し歩き続けた。韓石泉氏だけは台南市に残り、暗闇と戦火のなか娘を探し続けたが、無情にも翌朝、医院のすぐ側で横たわった彼女を発見した。下半身は瓦礫に覆われ、上半身は真っ黒に焦げていた。18歳の若さだった。

下の絵は台湾の釘絵師・胡達華氏の作品である。胡氏は韓良信夫人の韓李慧嫻氏から疎開時の体験を聞き、その情景を絵にして夫人に贈った。当時少女だった慧嫻氏も3月1日の夜、韓家とは別に、夜明けまで歩いて郊外の大内庄へ疎開した。宝石と交換した牛車に纏足の祖母を載せて。「途中木の下で休み、振り向くと、真っ暗な空の彼方に、真っ赤に焼け続ける台南の町が見え、悲しくてたまりませんでした。戦後に映画『風と共に去りぬ』の一場面を観て、全く同じ光景だと感じました」と慧嫻氏は述懐する。

胡達華氏による釘絵作品『烽火吞城』(韓李慧嫻氏提供)
胡達華氏による釘絵作品『烽火吞城』(韓李慧嫻氏提供)