台湾を視野に沖縄戦の再定義

洲鎌さんの体験は、1989年に出身地の旧下地町(現在の宮古島市の一部)がまとめた「下地町誌」に掲載されているが、これ以外はほとんど語らずにきた。それはなぜか。

洲鎌さんは筆者のインタビューに「栄丸といっても誰も知らない。(遭難事件の)生き残りというと、あれの生き残りと思っていたらしい」と語った。

「あれ」とは、1944年8月、九州へ向かっていた学童疎開船が悪石島付近で撃沈された対馬丸遭難事件を指す。アジア太平洋戦争で沖縄関係者が巻き込まれた船舶遭難の代表格だ。那覇市内にある対馬丸記念館や犠牲者を悼む「小桜の塔」に足を運べば、だれでも事件に意識を向けることができる。

これに対して、栄丸事件には慰霊の場はなく、メディアで取り上げられる機会も乏しかった。

この状況に変化が起きたのは2018年のことである。

栄丸で家族6人を失い、唯一生き残った洲鎌久人さん=7月4日、沖縄県浦添市の自宅
栄丸で家族6人を失い、唯一生き残った洲鎌久人さん=7月4日、沖縄県浦添市の自宅

同年3月、沖縄出身者の台湾からの引き揚げに関する研究成果が発表され、沖縄メディアが相次いで取り上げていた。現在は琉球大学講師を務める中村春菜氏(35)が指導教官とともにまとめた論考をきっかけに台湾引き揚げに関心が集まった。

「沖縄タイムス」は同年7月、洲鎌さんの体験談を掲載した。洲鎌さんがメディアに対して栄丸について語るのはこれが初めてである。沖縄メディアは、沖縄戦が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」を中心にして特集記事や特別番組を用意する。「沖縄タイムス」は台湾引揚をテーマに連載企画を掲載し、このなかで洲鎌さんを取り上げたのである。地方局の琉球放送(RBC)は約1年間洲鎌さんに密着し、そのドキュメンタリー番組を今年8月に放送した。栄丸事件は「もうひとつの沖縄戦」として再定義されていったのである。

宮古地方と並んで台湾とのかかわりが深い八重山地方の場合、軍の命令でマラリア発生地帯に強制移住させられ、3000人以上が犠牲になった「戦争マラリア」が戦後50年の1995年、一定の解決が図られた。日本政府が慰藉事業費として総額3億円を認め、記念館や慰霊碑が立てられ、「もうひとつの沖縄戦」として定着しつつある。筆者は2008年、戦後、疎開先の台湾から引き揚げた八重山の女性から「(台湾での疎開生活が)悲惨だったかなぁと思えば、(八重山で終戦を迎えた)この人たちはマラリアでこんなに苦しんでいらしたんだねぇと思ったら、自分たちの苦しみなんか言えなかったさ」と聞かされたことがある。語られる戦争体験がある一方で、語られない、語りにくい体験があるということである。

「沖縄戦」という大きな括りにおいては、沖縄本島での、特に中南部における地上戦の凄惨(せいさん)さを無視することはできない。その一方で、台湾への疎開や台湾からの引き揚げ、八重山の「戦争マラリア」など、地上戦以外の戦争被害に目配りをしなければ沖縄戦の全体像を把握したことにはならない。栄丸事件で生き残った洲鎌さんや砂川さんの証言に耳を傾けることで、台湾を視野に入れた「沖縄戦」というものが見えてくるだろう。

<参考文献>

  • 防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」(朝雲新聞社、1968年)
  • 粟屋憲太郎編「資料日本現代史3」(大月書店、1981年)
  • 沖縄県教育委員会編「沖縄県史」各巻(沖縄県教育委員会)
  • 平良市史編さん委員会「平良市史」各巻(平良市役所)
  • 下地町役場総務課編「下地町誌」(下地町地役場、1989年)
  • 松田良孝「台湾疎開」(南山舎、2010年)

バナー写真:栄丸事件で犠牲になった洲鎌さんの家族の位牌(いはい)。死亡年月日は遭難事件が発生した1945年11月1日となっている=2020年7月4日、沖縄県浦添市の自宅