NHKの衛星放送で日本プロ野球を知る
1979年に台湾の台中で生まれた林威助は、子供の頃からNHK衛星放送の野球中継で、「甲子園が熱烈なファンで埋めつくされている」のを見て育った。80年代に 活躍した “二郭一荘”(郭源治、郭泰源、荘勝雄の3投手の総称)が登板する試合をビデオで見てて、王貞治をはじめとする中華民国籍の選手が日本のプロ野球史に残した偉大な記録に憧れを抱いたという。
林は幼い頃から少年野球チームに入っていたが、元々、日本の野球は単なる憧れだった。中学に入学すると、資質を見抜いたコーチが「台北にいる友人が、福岡県の柳川高校の理事長と親しいので、留学を推薦できる」と声を掛けた。
林は「興味はあったのですが、当時は父の身体の具合が良くないため、諦めていました」と振り返る。地元の高校に進学して、夢を先延ばしにしていた1年後、再び日本へ渡る機会が訪れた。父親とじっくり話し合い、最後には「息子の夢だから」と応援してくれた。
「野球はいつまでもできるものではないが、文化や言葉を学ぶことは、留学することでしか体験できない」と、留学の目標を掲げた林は、野球については「甲子園に出る機会があればラッキー」ぐらいに考え、日本行きを決めたという。
学生時代の奮闘
1995年、林は単身来日、強豪・柳川高校に入学した。学校があった柳川市は福岡県南部の小さな街で、林は「あまりに田舎すぎて、来る場所を間違えたかと思った」と、来日当初の印象を語った。
筆者が交換留学で福岡大学にいたことを話すと、林は「福岡は大都会ですよ。当時の柳川は本当に田舎でした」とさらに笑っていた。
同期入学のチームメイトは2歳年下で、当初日本語がまったく分からなかった林は、先輩に怒られても、理由が分からず、毎晩、練習後に単語の本を取り出して、必死に暗記した。日本に馴染めず、口では「ホームシックにはなってない」と強がりながら、「実は何度も台湾に帰りたいと思っていた」と林は告白している。
しかし、次第に林は田舎で野球をすることの良さに気づいていった。娯楽がないので、野球に集中できるのである。平日は練習に明け暮れ、週末は対外試合。野球部には「休みらしい休みはなかった」が、チームメイトと努めて日本語で会話し、練習に専念したことで、目覚ましい進歩を見せ、特に打撃力で多くのプロ球団から注目される存在となった。
「プロのスカウトが見に来てるぞ!」 高校時代に監督にそう言われたことがあった、と林は振り返る。当時のプロ野球の規定では、外国籍の者が「日本人枠」でプロ野球選手になるには、日本で5年間の教育を受ける必要があった。そのため、林は近畿大学への進学を決めた。



