台湾映画を支える日本人として近年注目され、2019年金鐘奨(きんしょうしょう 台湾の放送文化に関する賞)で最優秀助演男優賞にノミネート、翌年にはCMで映像監督としてもデビューした蔭山征彦(かげやまゆきひこ)さん。台湾映画界で縦横無尽に活躍できた理由は何か?彼の生い立ちを追った。
10代の青春を演劇にぶつける
東京の郊外で生まれ育った蔭山は、幼少期はサッカー少年だった。野山でカブトムシを採ったり、小川でザリガニを釣ったりする典型的な自然児でもあった。ところが、中学に進学した頃からグレ始めた。高校では授業をサボっては映画館や遊興施設に出入りし、他校の生徒ともけんかを繰り返した。
「自分の存在意義が見出せなかったのです。両親は共働きで放任主義だったこともありますが、自分には何か打ち込めるものが必要だった」
1年後には定時制高校に入り直し、昼間は運送会社で配送助手として働き始めた。18歳で運転免許を取得すると、トラック運転手として栃木や群馬まで出向くこともあった。
この頃、無性に自分の情熱をぶつけられるものが欲しかった。ある日、新聞の広告欄にあった「劇団練習生募集」の文字に目が止まった。早速その劇団の門をたたき、週末は芝居の稽古に打ち込んだ。その2年後には、さらに自分を磨くため芸能プロダクションに所属することにした。プロダクションの社長は劇団四季の演出部出身で、蔭山が事務所に顔を出すのもためらわれるほど厳格な人だった。映画やテレビドラマの端役で出演し続けるうちに、最初のチャンスは意外にも早く訪れた。
英国映画『アナザー・カントリー』を改編した商業舞台のオーディションを受け、準主役に抜擢(ばってき)されたのだ。主役は舞台界のプリンス大沢健、そして黒田アーサーの二枚看板だった。1994年のことだった。
「稽古では徹底的にしごかれ、あまりにもつらくて泣きました。しかし、初めて正面から芝居と向き合えました。人様からお金をいただいて芝居をする責任の重さを痛感しました」
大沢健との出会いが転機につながった。大沢は自分の通っていた亜細亜大学に「一芸入試」で受験することを蔭山に勧めてくれたのだった。面接会場では他の生徒たちが制服で受験に臨んでいたのに対し、蔭山はチェックのプルオーバーにボロボロのジーンズといういでたちだった。それでも、同大学国際関係学部に見事に合格した。