多様化する自分の姿を楽しむ

青木の作品はその着眼点の斬新さが生命線だ。自分自身にしかない感性、感覚こそが最大の財産であると気付いた彼女は、台湾でさらに多方面へと展開していく。留学も1年半がたち、そろそろ日本へ帰国しようかと考え始めたころ、今度は行きつけのお茶屋の関係するギャラリーで、どんな作品でも良いから個展を開いてみないかという話が持ち上がった。熟考の末、墨絵の作品を展示することに決めると、もう1学期留学期間を延ばし、青木はこの話を受けることにした。ギャラリーの壁も自らピンク色に塗り直し、額装した自分の作品を20点ほど展示販売したところ、ほぼ完売した。作品を買ってくれた顧客の中に、台湾の著名なジャーナリスト・陳柔縉がいた。展示会が終わり、青木が陳のオフィスまで売約済みの作品を届けに行くと、そこにたまたま出版社の編集者が来ていた。陳の紹介で青木に興味を持った編集者は、その場で青木に本の執筆と装丁のデザインを依頼し、3週間後には契約の準備が整った旨の電話をかけてきた。冒頭で紹介した青木の処女作にしてベストセラーとなった『奇怪ねー台湾』は、こうして誕生したのだった。

青木さんが開催した展示会(提供:你好我好有限公司)

「台湾は海のものとも山のものともわからない『ゼロ』のものに対しても、面白いと思ったら、どんどんチャンスを与えてくれるところなのです」

青木はその時の状況をこう振り返った。2005年12月に同書が刊行されると、台北国際ブックフェアに合わせて著者サイン会が開かれ、長蛇の列となった。「作家」という肩書も手にすることとなった青木は、これを機に台湾情報発信者の騎手として、雑誌、テレビ、映画などのメディアコーディネーションに引っ張りだことなり、台湾の生活文化を題材とした著作も続々と発表していった。そして、台湾のJETテレビの番組『台湾一人観光局』の司会者にも抜てきされ、09年の金鐘奨(台湾のテレビ番組大賞)のバラエティー番組部門の最優秀司会者賞にも、外国人として初めてノミネートされた。

青木の次の転機は、自身の結婚、出産、そして東日本大震災の発生によって訪れた。著名ブランドが主催した台湾メディアツアーを成功に導いたことを機に、子育てをしながら長期間家を空けることが物理的に難しくなった現状とのバランスを図るように、15年には、定点の事業拠点となる雑貨店兼アートスペース「你好我好」を台北の下町、大稻埕に立ち上げた。そのオープニングでは、写真家の川島小鳥とのコラボレーション企画も実現させた。

台北にある雑貨店兼アートスペース「你好我好」(提供:你好我好有限公司)

「『你好我好』は、日本と台湾が、店とお客さんが、両方ハッピーな、ウィンウィンの関係を作ろうと名付けました。店を開いて一番自分が変わったことは、それまで買う側だったのが、売る側になったことです。安くて使い勝手の良い、台湾にしかないもの、自分が面白いと思った商品をそろえました。自分が買いたいもの、買えるものばかりです。売れ残っても自分で使えますから」

笑いながらこう語ってくれたが、青木の眼鏡にかなった品ぞろえは、価格も手頃で普段の生活にマッチするものでありながら、いずれもセンスの良さが光るものばかりだ。

東日本大震災の後の動きも素早かった。震災から4カ月後で津波の爪痕がまだ深く残っていた宮城県気仙沼市の市街地にあるお茶屋を会場とし、「ほぼ日刊イトイ新聞」の企画に協力する形で、知己の台湾原住民族シンガー・ソングライターのスミン(舒米恩)のライブコンサートを実現させた。スミンの歌声が会場に響き渡ると、震災後も一度も泣かなかったという地元の夫婦が、声を上げ抱き合って泣いたという。日本と台湾の間に立ち、音楽の癒やしの力を知る青木だからこそできた離れ業だった。11年からは、JFNジャパンエフエムネットワーク系列のラジオ番組『楽楽台湾(ららたいわん)』のパーソナリティーも始めた。くしくも震災後急速に台湾に対する関心が高まった日本社会に対して、日本と台湾の音楽や生活文化交流のプラットホームを提供し、文字だけではなく電波に乗せて毎週台湾の旬を届けることになった。

自分の感性と感覚を頼りに、数奇な縁を紡ぎながら、転がる石のようにして次から次へと転身、変化、展開を遂げて来た台湾での半生を、青木は「逃げ足は速く」と一言でくくってくれた。ふと筆者の持論である台湾文化の三大特性「受容性」「多様性」「機動性」を想起した。青木は、まさにこの三要素、すなわち台湾人の生き方そのものを地でいっているのではなかろうか。台湾という土地を受け入れ、台湾に受け入れられ、自分の感性に符合すれば、機敏に変化し多様化していく自分の姿を恐れない、いや、むしろそれを楽しむ姿勢、それこそが青木の神髄なのだろう。

バナー写真撮影:衛藤 キヨコ