死者を送る風習「洗骨」とは
『夏山雑談』の「息たえぬればいまだ死せさるよしにて」という部分には、この世からあの世に渡る間に、もう一つの世界が存在するのを思わせる。特に台湾ではこの「間の世界」にある死者をいかに次の段階に送るかが重視される。筆者も台湾人家族の葬儀を経験したが、現代では儀式がかなり簡略化されている日本に比べ、台湾のそれは筆者にとって強烈な印象を残した。文献資料を読めば、かつての儀式はもっと複雑だったことが分かり、昔の人には頭が下がる。
死者を次の段階に送る方法として、以前の台湾では「洗骨」が当たり前の風習だった(子供や事故に遭った死者は例外)。死んだ家族のひつぎを家の中に留め置き、いろんな儀式を施した後に土葬して、一定期間を過ぎ白骨化した遺体を掘り返し、きれいに洗って再び埋葬する。一時的に埋葬しただけの死者は死霊のままで、子孫のためにならないどころか病や死を持ち込む危険な存在とされ、風水師が選んだ吉日に洗骨をし、吉祥の方角にて第二の葬儀をする。そうすることで子孫に幸福と豊穣(ほうじょう)をもたらす「祖先」となる。
今も台湾には何代も続く男性の「洗骨師」がおり、台北帝国大学で医学教授だった金関丈夫の本にも記されている通り、彼らは人体について解剖学的な知識も持っている。台湾に火葬が持ち込まれたのは日本時代で、公衆衛生の観点から最初はマラリアなど伝染病による死者が火葬された。火葬場は現在の台北市中山区、林森公園(日本時代は三橋町といった)の辺りに建てられたが、台湾人にとって洗骨の儀式は儒教的「孝」を重視する漢民族社会の象徴そのものであり、抗日意識の高まりを恐れた台湾総督府も無理に火葬を強制しなかった。

台湾の日本時代から戦後にかけて活躍した台湾人小説家の呂赫若は『風水』(台湾語:ホンスイ)という作品で、洗骨が済んでいない父親が夢枕に立ち自分を親不孝と責める一方で、自分勝手な弟が連れてきた風水師によって腐敗途中の母親のひつぎを開けてしまう――日本の領土となってもたらされた近代意識と伝統文化の間で戸惑う台湾人の葛藤を描いた。衛生面や土地不足の問題で火葬が主流となった現在でも、自然な腐敗(土葬)を経た骨は台湾語で「青骨」、火葬を経た骨は「熟骨」と呼び分けられている。
沖縄や奄美大島でも伝統だった洗骨
「洗骨」は台湾のみならず沖縄や奄美大島でも、土葬・風葬など形は違えど伝統的に行われてきた。日本の小説家・島尾ミホの文学作品にも洗骨のことが出てくるが、台湾を含む漢民族社会では洗骨師が皆男性なのに対し、沖縄地方では女性が担ったことは興味深い。親族や地域で共有する墓からひつぎを男性たちが運び出し、死者と最も血筋の近い女性がふたを開けて骨を取り出し、白骨化した骨から皮膚を包丁で剥ぎ取り、海水と泡盛で洗い清めた後に骨つぼへ入れる。自分の親や子供を洗骨することは、女性にとって残酷な仕事である。このため後に起こった女性運動により、1939年には火葬場が設置され、火葬が中心となった 。