結婚を機に中国語の習得に専念
大学を卒業後、念願かなって映画制作配給会社の東宝に就職した西本の最初の配属先は関西支社で、梅田駅そばの映画館での勤務だった。熱狂的な映画ファンが集まる映画館だったこともあり、学生時代から熱烈な香港映画ファンだった西本は新人の頃からロードショーの間隙(かんげき)を縫って香港映画のレイトショー上映会を自ら企画した。神戸の南京町にも通い、ツイ・ハーク監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』など香港映画のビデオを買いあさり、香港映画祭が開催された年には、開催時期にはもちろん、年4回も香港に通った。
こんな西本だが、ふとしたことで台湾にも関わるようになる。日台合作映画としてエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の思い出』の制作に関わっていた日本の助監督から、台湾の撮影現場を見に行かないかと誘われたのだ。1999年のことだった。
「英語の通訳を兼ねて2泊3日の旅でしたが、熱量を感じるいい現場でした。ヤン監督からも歓待を受け、撮影以外の時間で市内観光をする際は、スタッフを1名、自分に張り付けてくれました。それが後の夫、王也民でした」
日本に戻ってからも毎晩のように王から熱烈なラブコールが掛かってきたが、映画の話以外では心は動かなかった。ところが、99年冬にアン・リー監督の『グリーン・デスティニー』の中国での撮影に演技指導で参加することになった王は、西本を北京の撮影現場の見学に誘い、「映画の現場」という言葉に彼女も釣られ、それに応じたのだ。北京ではトラブルが起きるたびにさっそうと問題を解決する王の姿をとても頼もしく感じた。ロケの合間に万里の長城から一緒に獅子座流星群を見ようと誘われ、これが決定打となった。その1年後、西本は王の妻として台湾の土を再び踏むこととなった。今では高度な中国語の通訳もこなす彼女だが、この当時は、中国語をほとんど解せなかった。
「当時は台北の郊外に住んでいたのですが、週末は夫の実家の基隆で過ごすしきたりでした。夫の家族や友人たちとの集いは、中国語だけの世界で、疎外感が募るばかりでした。言葉が分からないつらさを作り笑いでごまかしている自分が嫌でたまらず、一念発起して中国語を学ぼうと決めたのです」