自分の使命は「文化のトランスレーション」

帰国後は台湾企業の日本支社の立ち上げに加わった。この会社は工場が中国にあり、その管理業務のため出張で何度も中国に通った。ここでは毎日残業が続き、家には帰って寝るだけの生活だった。

転機は2011年の東日本大震災だった。職場のある東京・日本橋で藤樫も激しい揺れを体感した。ところが、震災直後で社会全体が混乱している時期にも関わらず、会社では顧客への納期を気にしたり、電車の遅延でもその分の給与が差し引かれたりした。藤樫は疑問を感じた。ちょうどそんな時、台北で親しくしていた台湾の友人の訃報が届いた。自殺だった。

「大変ショックでした。震災と友人の死を通して、さまざまな思いが去来しました。人生はいつ何が起こるか分からない。自分はこんなことをしていて良いのだろうか。やりたいことがあるのなら、今やるしかないのではないか」

そうした思いに駆られ、11年9月に台湾に戻った藤樫は、かつて暮らした台北を素通りし、台湾東海岸の台東へと向かった。これには理由があった。

その前年、10年のことだった。台北在住の日本人の友人から誘われ、藤樫は正月休みを利用して台東県卑南郷のタマラカウという集落に足を伸ばし、少数民族プユマ族の「大獵祭(狩猟祭り)」を見に行った。台北に住んでいた時にはほとんど意識しなかった台湾先住民族の文化を、この時初めて目の当たりにした。伝統的な服装、言葉、歌、踊り、その一つ一つに強烈な衝撃を受けた。

プユマ族の「小米祭」に参加する藤樫氏(杜宝漢氏撮影)

「彼らには自分たちの帰る場所があり、自分たちの地域の歌があり、伝統の踊りがあったのです。日本の都会で生まれ育った自分には無いものが、そこにはありました」

日本統治下で教育を受けた日本語世代の古老たちの、70年前で止まっている美しい日本語にも心を打たれた。自分の祖国では、日本語は時代と共に変化し、とっくに失われたものがここにはある。自分も台東であの輪の中に入れたなら、どんなに楽しいだろう。

その思いを2年近くの歳月を経てようやく実現させたのだった。タマラカウ集落で暮らし始めた藤樫はプユマ語を習い、鶏の世話をし、民族の料理を覚え、伝統の踊りや刺しゅうも学び、この土地の文化にどっぷりと漬かった。半年後に拠点を台東市内に移すと、村の若手リーダーが発案した「タマラカウのお話小屋」というプロジェクトの広報とツアーの通訳を担当し、今度は外から彼らの文化の伝達を支援する側に立ち位置を移した。

「自分の立ち位置は『懸け橋』となること、日本と台湾の先住民族との『文化のトランスレーション』をすることではないかと思ったのです」