人生を変えた沖縄出身のミュージシャンとの出会い
2001年12月末に帰国した大竹は、トモ藤田や大竹自身も愛用している「Kanji」ブランドのギタービルダー、川畑完之の工房に足を運んだ。そこで米国のブルースギタリストのボブ・ブロズマンとも親交のあった沖縄出身のミュージシャン、平安隆から、バークリー入学を翌年2月に控えていた大竹に、一緒にやらないかとのオファーがあったのだ。
「アメリカに行っても言葉が上手くなるだけだとも言われました。実は自分自身も前年の語学留学から帰って来て、このまま進学しても自分がギタリストとして成長できるのか、疑問を感じていたこともありました」
大竹はその場で了承した。この瞬間、大竹の留学話も消えた。それからは、東京近郊の沖縄居酒屋を中心に、年間200本のライブで演奏する怒涛(どとう)の日々が始まった。平安からはリズムの大切さを叩き込まれた。プロとして稼ぐことの厳しさや観客とのコミュニケーションを取ることの大切さも現場の実践の中から学んでいった。
03年10月のことだった。平安が台湾の「流浪音楽祭」に招待された。これまでは、国際的なステージでは、ボブ・ブロズマンと常にコンビを組んで来た平安が、この時は大竹を連れて行くことにした。大竹の演奏は他の出演者や台湾の聴衆からも好評だった。
この音楽祭でセッションを組み、平安、大竹と同じステージに立ったのが林生祥だった。林生祥は自分の出身地である高雄県美濃鎮(現・高雄市美濃区)を拠点に、母語の客家語の叙情的な歌詞に乗せ、故郷の土地への慈しみをつづるシンガーソングライターである。同行していたギタービルダーの川畑も、林生祥と大竹の音楽は親和性が高いと直感した。
大竹はいったん台湾を離れたが、05年にドイツのルドルスタッド・フェスティバルに林生祥の参加が決まると、当時林生祥のマネージメントを手掛けていた大大樹音楽図像(Tree Music & Arts)の鍾適芳は平安と大竹をドイツに招いた。大竹はその後もたびたび鍾適芳に呼ばれ、林生祥とのステージを重ねていった。
一方、その翌年の06年2月に、大竹は4年間苦楽を共にした平安の下を離れる決意をする。そして、2カ月後に台湾の「客家桐花祭」で行われた林生祥のステージには再び大竹の姿があった。この年8月に発表された林生祥の新譜「種樹」のレコーディングにも大竹はギタリストとして全曲参加した。翌年、台湾のグラミー賞と称される「金曲奨」の最優秀客家語ボーカリスト賞と最優秀客家語アルバム賞を受賞しながら、音楽を言語や「族群」のカテゴリーに分けることに林生祥が異を唱え、授賞式の会場でトロフィーを返上して話題となった作品である。
こうして大竹は家族の住む日本と台湾の間を往復しながら、7年にわたり林生祥のライブやアルバム制作に参加し続けた。大学の音楽サークル仲間で盟友のベーシスト早川徹とともに、林生祥のバンド「生祥楽隊」の正式メンバーともなった。11年には大竹自身の初のソロアルバムとなる「似曾至此(I Must Have Been There)」が完成。続いて13年に生祥楽隊としては初のセルフプロデュースアルバムとなる「我庄」を発表した。その年の秋に大竹は日本から妻子を呼び寄せ、台湾に本格的に腰を落ち着けることとなった。

