バンコクの美容師:「美容カルテ」でパーソナルケア
美容師の黒澤裕子さん(33歳、仮名)はバンコクに移住した先輩美容師を頼って、3年前に高級住宅街にある日系美容室で働き始めた。彼女は軽快な会話でタイ人顧客をリラックスさせる。リピーターの客が入店した瞬間に「○○さん、お待ちしてました」と友達に向けるような笑顔で迎え入れる。客がスタイリングチェアに座る前に、「前回の髪型どうでした? ちょっと短すぎましたか?」と話しかける。いきなりどんな髪型にしたいかと聞くのではなく、前回の感想を聞き、客が不満だった点を言いやすいよう仕向ける。
巧みなコミュニケーションの取り方で、客は切られすぎてしまう不安や、要求しすぎて嫌われるという心配が無くなり、理想の髪型をリラックスして説明できる。そして黒澤さんは「子猫の○○、大きくなりました?」「肌荒れ良くなりました?」と客の飼っているペットの話題などで会話を弾ませる。客は自分が温かく受け入れられていると安心する。彼女の勤める日系美容室は、「待ち時間に飽きないようにタブレット端末を渡してくれる」、「コーヒーと共におしぼりを出してくれる」、「カット後に肩から腕までマッサージしてくれる」など、きめ細かな「日本発サービス」で人気を集めている。もちろん洗練されたカット技術には定評がある。
日系美容室の顧客に対するパーソナルケアは、アジア諸都市で際立ったサービスとして歓迎されている。黒澤さんが客との世間話を覚えているのは、彼女自身の記憶力が良いだけではなく、日本で開発された「美容室カルテ」というシステムを利用しているからだ。初めての客には、好みのスタイルから髪質、薬剤へのアレルギー反応までを聞き、病院のようなカルテを作る。そのカルテに毎回の髪型が記録されていくので、美容師は髪型遍歴を客自身より詳しく覚えており、数年前に10円ハゲができたなど、客がすっかり忘れていたことを指摘することもできる。そのカルテには、顧客のプライベートな情報も書き込まれている。
アジアの中間層を捉えた「日本発サービス」
アジアのグローバル都市では、趣味や娯楽にお金を使える中間層が急速に増加しており、彼らが求める「日本発サービス」のレベルが高くなっている。中間層に属する人々は日本を頻繁に訪れ、地方の温泉旅館に泊まり、挨拶(あいさつ)程度の日本語を解する裕福な消費者である。彼らにとって「日本発サービス」は既に遠くにある憧れではなく、子どもの頃から慣れ親しんできたものだ。
例えば、高橋さんが任されたすし屋の常連客は、子供のころ日本のドラマ『サインはⅤ』に熱狂し、大学生になって松田聖子に憧れ、アイドルの好物であるすしや天ぷらを食べ始めたそうだ。そうして日本文化に慣れ親しんできた彼らにとって、日本食はとても身近な存在になっている。本場の「日本発サービス」を味わえるすし屋が話題となり、そこでの体験がソーシャルメディアで瞬時に行き渡り、洗練されたサービスや技術へのリテラシーは日に日に高まりつつある。
異国の地に引き継がれる職人気質
ここで紹介した3人は、海外で働くことにやりがいを感じている。日本で働いていた時は、職場の高齢化によって客とコミュニケーションを取る機会を奪われたり、成熟したサービス業の過当競争に疲弊したりしていた。しかしアジアのグローバル都市では、客の前で技術を披露する機会に恵まれ、自分たちが身につけた日本的なサービスによって、現地サービスとの差別化を図ることができる。
彼らの日々の仕事は、海外に来てもそれほど変わらない。すし職人は包丁を研ぎ、まな板を洗い、魚の下ごしらえをする。バーテンダーはレモンを搾り、氷を砕き、グラスを磨く。美容師はハサミを整え、鏡を拭き、床を掃く。これらの作業は単調だが、「日本発サービス」を期待する客の視線の下では、その一つ一つの動作が日本の洗練された「おもてなしの所作」として見なされる。
海外では自分が日本の代表に見られてしまうため、親方や先輩から習った「職人気質(かたぎ)」をできるだけ忠実に伝えようという使命感が生まれる。だから決して手を抜かない。どんな技術も一人では生み出すことはできず、先達(せんだつ)の仕事の積み重ねの上に成り立っている。先輩たちが築いてくれた技術やサービスの蓄積によってこそ自分の今があり、アジアの地でそうした伝統の一端を担えることの幸せを感じながら仕事に打ち込んでいる。
バナー写真=香港では日本人のすし職人が握るすしが人気だ(筆者撮影)

