競い合いながら九州最大の都市に
1600年、関ヶ原の戦いで戦功をあげた黒田長政は、徳川家康から筑前一国を与えられる。長政は博多の西側の地(現在の福岡市中央区)に城を築き、黒田家ゆかりの備前福岡(現在の岡山県)にちなんでこの地を福岡と名付ける。城下町・福岡と中世以来の商業都市・博多からなる、双子都市の誕生である。1889年に初めて市制を施行したときの福岡市は両者を併せたものだが、その面積は現在の市域の1.5%にすぎない。福岡と博多の区別は、今日でも祭礼などを通して可視化されている。
市制施行後の福岡市は、激しい都市間競争を通して、九州地方における一極集中的な大都市となった。しかし近代国家へのスタート時点で、九州における最大の都市は、江戸幕府の直轄地であり、唯一の公式の対外窓口・長崎だった。人口においても、明治維新の主役であった鹿児島や、細川氏が治める大藩の城下町・熊本の方が大都市であった。他方で官営製鉄所を立地して工業化の先頭を走った八幡や、鉄道の起点で港湾都市として発展した門司などの北九州諸都市が、九州における近代都市の成功例であった。
福岡にとって都市化の最初の大きな契機は、地方版内国勧業博覧会とでも言うべき1910年の「九州沖縄八県連合共進会」の開催である。このイベントで市内電車などの交通インフラが整備され、その後九州帝国大学の誘致、1920年代から30年代にかけてのモダンな消費都市への変貌などによって、九州最大の人口を擁する大都市に成長した。
しかし、北九州諸都市を羨望(せんぼう)のまなざしで眺めながら目指した、煙突が林立する工業都市化は第2次世界大戦後も実現しなかった。福岡市が都市戦略を管理中枢都市、つまり第3次産業の集積による開発に転換するのは60年代の半ば以降である。そして80年代以降の情報化、グローバル化の進展こそは、福岡市を飛躍させる決定的な契機となった。さらに、モノ消費からコト消費へという時代の展開を追い風に、アジア諸国とつながるスタートアップ都市・福岡の現在があるのである。
発掘調査で明らかになる史実
この都市が興味深いのは、大陸から伝わった水田稲作を洗練させ、人々の集住が王権を生み、やがて都市的な集積に発展する営みが、福岡平野という比較的コンパクトな地域に、あたかも上書きを重ねるように連続的に累積し、現代に至っていることである。ここではそのような福岡市の在り方を、「上書き都市」と呼ぶことにする。
現代の開発も上書きの一種である。しかしそれらの上書き行為は過去を抹消するとは限らない。例えば、比恵・那珂遺跡群(福岡市博多区)だけでも約300件の発掘調査が行われ、それによって奴国の実態が明らかにされている。鴻臚館は長らく文献以外の史料に乏しかったが、1987年、平和台球場のスタンド改修に伴う発掘調査をきっかけとしてその全貌を現し、現在は国の史跡として整備されている。
地下鉄建設工事に伴って77年から開始され、現在も続く博多遺跡群の発掘調査は、遺構や、大量の貿易陶磁をはじめとする出土遺物によって、これまで伝承や文献資料によって語られてきた国際貿易都市・博多の都市景観を、具体的に明らかにした。30万点を超える出土遺物のうち2138点の逸品が2017年に一括して国の重要文化財に指定されている。
バナー写真=福岡市空撮。埋め立てによって生まれた人工海浜に面したビル群は、1989年のアジア太平洋博覧会を機に開発された百道浜・地行浜地区(写真提供=福岡市)



