「台湾ニュースの読み方」を覚える

台湾政治の「情況に入る(進入状態)」ための「三点セット」のうち、「人に会う」と「選挙を見に行く」は、1983年までに何とか実践できた。残るは「ニュースを読む」だった。「ニュースを読む」には、例えばなぜ、この人物の言動・行動が報道されるのか、毎日のニュース記事は必ずしもそのコンテキストを記すわけではないから、その人の名や関連人物の名がどうしてその記事の中に出てくるのか、それをある程度了解できるようになる必要がある。

インターネットで世界中のニュースを読むのが当たり前の現在では信じられないかもしれないが、私は当時すでに観察記事や研究ノートのようなものを発表していたのに、まだ台湾現地の新聞を経常的に読んではいなかった。東京で台湾紙を購読するのは結構な費用がかかったのが最大の理由である。各種雑誌をまめに読み、新聞は台湾に来た時に数紙に必死に目を通した。

ところが、香港総領事館に来ると、英字紙・漢字紙を問わず現地新聞各種と、『中国時報』、『聯合報』、『自立晩報』の主要紙と、確か『台湾時報』も購読していて、自由に切り抜きをすることができた。台湾紙は午後に届いた。もちろんAsian Wall Street Journal, Washington Postといった英字紙やTime, Newsweek, そして現地のFar Eastern Economic Reviewなどの週刊誌も読み放題であった。

そして、香港に着任するや、これらのメディアで大量に報道されていたのが、江南事件に関わるニュースであった。当時、専門調査員はオフィスにいる間はこれらの新聞・雑誌を読むのが仕事であったと言ってもよかった。私にとっては、江南事件は「ニュースを読む」の実践の格好の自己訓練の題材であった。前記のように大量にニュースを読み、香港人や台湾人に会って話を聞き、また総領事館の中国通が昼飯時などに傾けてくれる蘊蓄(うんちく)に耳を澄ませた。

江南事件

江南というのは人名で、ヘンリー・リュウ(中国名劉宜良:中国江蘇省生まれ、当時52歳)という米籍華人の筆名の一つである。1984年10月15日、その彼がサンフランシスコ郊外の自宅で3発の銃弾を受けて暗殺された。彼は江南の名でその前年より米国の華字紙に連載していた『蒋経国伝』を、殺される前月に単行本で出版したばかりであった。すぐさまこの出版に関わる政治的殺人だろうとの観測が出た。この本は、正確な月日は思い出せないが私も割に早い時点で入手して目を通していたが、殺されるほどの内容とも思われなかった。後の情報を読み進んで分かったことだが、リュウ暗殺の誘因は『蒋経国伝』というよりは、これから書くだろうと予想された『呉国楨伝』を阻止することにあったようだ。呉国楨(1903-1984年)は国民党政権台湾逃走初期に台湾省主席をしていた親米派の政治家で、蒋経国の政敵でもあり、政治警察を握っていた蒋に追われるようにして50年代中頃に米国に亡命していた。リュウはその呉と接点があった。晩年は中国に接近していて、それまで公に語ることを控えていた蒋経国に都合の悪い事を、リュウを通じて語るのではないかと台湾の情報筋で懸念されたというのであった。

事件はFBIがすぐさま捜査に乗り出し、まもなく台湾からやってきた陳啓礼ら「竹聯幇」という台湾の「黒社会」(ヤクザ集団)の幹部3名によるものと発表され、そのうち台湾に帰っていた2名が、「掃黒」(ヤクザ一斉取締)の名目で逮捕されたが、12月5日にはNew York Timesが蒋経国の次男蒋孝武(1945-1991年)が事件の背後に絡んでいる疑惑があるとの記事を掲載した。年が明けて、任務を果たして帰国後闇に葬られることを恐れた陳啓礼が在米の仲間に残した犯行経過を述べた録音テープなるものをFBIの側が入手し、それとほぼ同時に彼らに指示を与えたとされる国防部情報局の局長汪希苓ら3名の幹部の逮捕と軍事法廷送りを蒋経国が指示した。

私が香港に赴任したのは、米捜査当局、台北の国民党当局、そして自己防衛しようとする竹聯幇の三つ巴の駆け引きが、関係者の逮捕によって、決着に向かおうとしている頃に当たる。その後、国民党当局側がヘンリー・リュウは台湾側、中国側、そしてFBIにも情報を提供する三重スパイであることを示唆するヘンリー・リュウの「情報通報書翰」7通を香港誌『九十年代』に暴露するなどの反撃に打って出る一方、米議会では武器輸出法1982年修正条項(米国市民に一貫したパターンを持つ迫害を行う国家に対して大統領に武器輸出を停止する権限を付与する)の台湾適用が取り沙汰され公聴会が開かれるなどの展開があって、国民党当局は、結局対米対世論を意識して汪希苓らの軍事法廷も完全公開とするとともに、彼らの関与が個人的なものであるとして断罪して、幕引きとしたのである。米議会は下院外交委員会で公聴会を開いたものの、前記修正条項を適用するとの結論は出さなかった。こうして85年4月中には事件は沈静化していったと言える。