商社から語学教材出版社勤務を経て、2014年、日本人の旅行者や在住者に向けて、観光やグルメ、ショッピングの他、台湾に関する幅広い記事を掲載する情報誌「な~るほど・ザ・台湾」編集長に就任した二瓶里美さん。2018年に同誌は休刊してしまうが、外国語教材を扱う地元台湾の出版社に転職。台湾で学んだトライ・アンド・エラーの精神と、「人間万事塞翁が馬」の心構えで日々を過ごす。
中国留学中に学生の学ぶ姿勢に衝撃を受ける
二瓶里美は福島県いわき市で生を受けた。幼少期は横浜で育ったが、夏休みには決まって福島県石川郡石川町の母方の実家や伯母宅で過ごした。あぜ道のカエルの鳴き声や鎮守の杜のせみ時雨、盆踊りの祭ばやし、そして、何より祖父母や伯父伯母の話す福島の方言の響きが好きだった。二瓶の言語に対する興味は既にこの頃から培われていた。
大学では中国語・中国文学を専攻した。卒業旅行は短期留学も兼ねて北京語言学院(現・北京語言大学)で数週間を過ごした。思った以上に水が合うと感じた。ドラム缶で調理した焼き芋が売られていた「胡同」と呼ばれる下町の路地からは、高層ビル群が顔をのぞかせていた。都市と田舎、現代と伝統が混在しながらまい進する中国の勢いに目を見張った。
卒業後は商社に4年間勤めた。この間も言語への関心は高まるばかりだった。1997年の夏、満を持して上海外国語大学への留学を決意する。生活は楽しかったが、キャンパスには日本人留学生があふれ、街角では方言の上海語が飛び交っていた。中国語の標準語である「普通語」を習得する環境には向いていないと感じた。1年後には日本人が比較的少なく、北京にもほど近い天津外国語学院(現・天津外国語大学)に転学した。
天津ではあえて他の日本人留学生たちとは距離を置き、日本語学科の中国人学生との「言語交換(お互いの母語を教え合うこと)」に力を入れた。彼らの日本語を学ぶ熱意や姿勢に衝撃を受けた。
「大学4年間で外国語で高度な意思疎通が可能となることがどれだけ大変か。プライバシーもほとんどない大部屋の寮に寄宿する彼らは、早朝の校庭を歩きながら寸暇を惜しんで教科書を暗唱していました。二宮金次郎のような姿に頭が下がる思いでした」
自分の中国語がある程度上達したと実感した二瓶は、そのまま中国に留まって就職することも考えた。しかし両親の反対に遭い、結局、1999年初めに帰国し、東京で就職しながら引き続き翻訳の専門学校に通うこととした。
