初めての接点は、間接的な問答
私が同時代台湾政治研究に集中するようになってから李登輝との接点が初めて生じたのは、この逃したチャンスの10年後であった。実はこのことは、2008年に出した著書『台湾の政治 中華民国台湾化の戦後史』(東京大学出版会)の中で注釈の形で披露している。李登輝が総統を退任して8年がたち、公開しても問題無しと判断したのである。時は1989年12月、台湾で最後の増加定員選挙となる立法院議員と県市長の同時選挙が行われた直後のことであった。まずはその注釈をそのまま引用する。
「1989年末選挙の現地観察を終えて帰国すると、筆者は当時の亜東関係協会駐日代表処[現台湾日本関係協会駐日代表処]副代表の鍾振宏氏から面会を求める電話が何回も留守宅にあったことを知った。連絡をとって面会すると、李登輝総統本人から直接の電話があって、選挙結果についての筆者[若林]のコメントを聞け、との指示であったという。筆者は国民党の総得票率が六割を切ったのは、国民党がマスメディアを握り、民進党とは比べものにならない組織力と財力を持っている状況では、事実上の敗北だろう、との趣旨を述べた」(前掲書、431頁)
鍾振宏氏は、政府の広報系統を歩んできた人で、李登輝が台湾省政府主席在職時には省政府の新聞局長(広報局長)を勤めたことがある。当時の外交系統の中では数少ない李登輝の腹心の一人であった。したがって、同氏を通じての情報収集は李登輝個人ルートによる情報収集であると言える。権力者が政府、情報機関、党などの公式ルートから上がる情報の他に、個人の人脈を使って別ルートからの情報を求めるということはよくあることである。かなり後になってこの時李登輝がアメリカ人ウォッチャーの見解も質していたことを知った。私はそういうルートの宛先の一人だったわけである。
近づく重大政治日程を前に
後知恵であるが、この時期李登輝は極めてクリティカルな政治的決断を迫られていたのだと思われる。私は前記2008年の著書では「李登輝は遅くとも89年末選挙後には、オポジションとの再交渉によって民主化を推進することを具体的に決意していたものと思われる」との推測を述べ、その根拠の一つとして前引の注を付したのだった。
在職中に死去した蒋経国から受け継いだ李登輝の総統任期は1990年5月までだった。その前に、3月には、大多数の非改選の「万年代表」に「増加定員選挙」で選出された少数の代表が混じる旧制度のもと、国民代表大会による正副総統選挙が予定されていた。また、その前には、国民党の中央常任委員会や中央委員会が国民党としての正副総統候補を決めることになっていた。
こうした重大政治日程を前に、政権の各セクターに影響力を持つ外省人要人も動きはじめ、ポスト蒋経国直後の国民党要人間の相互牽制の均衡は崩れようとしていた。その一方、野党民進党は、蒋経国の最晩年から死去直後にかけて制度化されていった制限付きの自由化(新規政党は「台湾独立」を主張してはならない)と微温的な政治改革(退職金を支給して自発退職を促す形で「万年国会」を解消する)に不満であり、さらには憲法の重要条項を棚上げし苛烈な治安法制の根拠となってきた「叛乱鎮定動員時期臨時条項」の廃止が提起されていないことにも大いに不満であった。
そのことは、戒厳令解除の頃から、台北の街頭が各種の政治・社会改革の要求を掲げるデモ・集会の波に洗われ続けていたことからも明らかだった。
