「清水の舞台から飛び降りる」決断
1991年の夏頃、亜東関係協会駐日代表として赴任してきた許水徳氏から日本語で、李登輝は「丸腰で総統府に入った」とのコメントを聴いた。外省人エリートからすれば、李登輝は蒋経国がその政治戦略から抜擢した本省人の従属エリートにすぎなかった。上記の私の推測のごとく、蒋経国のお墨付きのある微温的改革を否定してオポジション(反対勢力)との再交渉に入ろうとするなら、外省人エリートが期待した「暫定総統」、「傀儡(かいらい)総統」ではなく、自分自身が独自の交渉力を持つ「実権総統」にならなければならない。そのための対決の時はすぐそこに迫っていた。
あえて李登輝の内心を忖度すれば、それはまさしく「清水の舞台から飛び降りる」決断だったように思う。ただ、この決断が無ければ、後に「Mr.Democracy(民主先生)」と称えられる李登輝もなかった。
とはいえ、以上は私自身が確からしいと思う推測である。チャンスはあったにも関わらず、この時の間接的質問について李登輝本人にも鍾振宏氏にも確認することを怠っているうちにお二人とも鬼籍に入ってしまった。自身の不明を恥じるしかない。
このように間接的な単一方向の問答ではあったが、これが李登輝と私の最初の接点であった。まもなく、直接言葉を交わす機会がやってくることになる。
バナー写真=中国の実弾演習海域に近い澎湖諸島の寺院を訪れ、子供と握手する李登輝・台湾総統、1996年3月14日(ロイター=共同)
