東京の中心地で徳川将軍家の墓を守り続ける増上寺。浄土宗の大本山という修業の場でありながら、境内の背後に東京タワーがそびえるインスタ映えスポットとしても注目されている。
よく通り掛かり、ずっと気になっているけど、足を踏み入れたことがない——。港区芝公園の「三縁山広度院 増上寺」は、そんな場所の一つといえるだろう。
東京タワーのすぐ近くで、日比谷通り沿いに巨大な朱塗りの門を構えているが、境内に入って参拝したという話はあまり聞かない。
増上寺参拝課の松永博超課長は「増上寺は、観光に向くお寺とは言えません。残念なことに戦災によって、歴史ある建物の多くが焼失してしまいましたので」と謙遜するが、浄土宗の大本山で、徳川将軍家の菩提寺だった東京有数の名刹である。荘厳なお堂が立ち並び、6人の将軍に加えて2代秀忠の妻・江や皇女和宮の墓所もあり、貴重な寺宝を多数持つ。そして何より、都心部では珍しい清閑な空間なのだ。
SNSが普及してからは、仏教建築と大都市のシンボル・東京タワーの共演を撮影するため、以前よりも境内に足を運ぶ人が増えたという。それでも、ちゃんと参拝までするケースはまれである。松永さんは「気軽に立ち寄ってほしい」としながら、「まず大殿(だいでん)のご本尊に手を合わせ、“南無阿弥陀仏”と唱えてから、境内を散策したり、写真撮影をしたりしていただければ」と参拝マナーを優しく説く。
家康の帰依により、徳川家菩提寺として繁栄
「“南無阿弥陀仏”とただひたすらに唱えれば、誰もが極楽浄土に往生できる」という平易な教えの浄土宗は、宗祖の法然が中国の僧・善導の思想に影響を受けたことで1175(承安5)年に誕生した。
増上寺の本堂「大殿」には本尊「木造阿弥陀如来坐像」が中央に安置され、その両脇に法然上人と善導大師が鎮座している。
増上寺は1393(明徳4)年、浄土宗第8祖・聖聡(しょうそう)が江戸城西の武蔵国貝塚(千代田区紀尾井町付近)に創建した。東日本における浄土宗の根本道場という役割を果たしていたが、繁栄したのは1590(天正18)年に徳川家康が江戸へ国替えになってからだ。
徳川家は三河(愛知県東部)の松平家の時代から、浄土宗をあつく信奉した。松永さんによると、家康が江戸に入る前、松平家菩提寺の大樹寺(愛知県岡崎市)に相談したところ、増上寺を紹介されたという。大樹寺を開山したのは聖聡の孫弟子で、後に京都の知恩院23世となる愚底で、増上寺は同系統になる。江戸城に拠点を移すと増上寺はすぐ近くにあり、家康は当時の住職・存応(ぞんのう)に心酔して、江戸での菩提寺に決めたのだ。
現在の芝の地に移転したのは1598(慶長3)年、家康が征夷大将軍になる前のこと。徳川幕府は江戸城を守るため、増上寺を裏鬼門(南西)、寛永寺(1625年創建)を鬼門(北東)の方角に配置したといわれる。
死後の家康は日光東照宮(栃木県)で神となったので、増上寺に造営された最初の将軍墓所は秀忠の「台徳院霊廟」である。その後、3代家光は日光山輪王寺に葬られ、寛永寺に墓所を築いた将軍もいるため、増上寺で永眠したのは6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂。それぞれ壮大な霊廟であったが、戦災で焼失してしまい、「徳川将軍家墓所」にまとめて改葬した。
江戸時代の境内は広さ25万坪を誇った
増上寺の寺領は、将軍の霊廟が造営される度に拡張した。今は表門に見える三解脱門は本来中門で、旧総門は都営浅草線と大江戸線の駅名にもなっている「大門」だ。三解脱門から東の大門までは煩悩の数と同じ108間(約195メートル)あり、その間には数多くの子院が並んでいた。
境内の北側は、東京プリンスホテル駐車場の北端にある「御成門(おなりもん)」の通りまで。こちらも都営三田線の駅名として知られているが、将軍家が増上寺に参拝する際の専用門の名である。南は芝公園やザ・プリンスパークタワー東京の土地、西は東京タワーの足元辺りまでと、全盛期の境内は約25万坪にも及んだ。門内には48の子院や、常時3000人いたという修行僧のための学寮が100軒以上並び、その他に馬込や目黒、川崎などに寺領として1万石余りを抱えていたという。












