日本の「南進」を活かして台湾で成功

西澤吉治は1872(明治5)年、越前鯖江藩の下級武士であった為次の息子として生まれた。一家の生活は苦しく、9歳のときに一家は徒歩で鯖江から神田小川町(現・東京都千代田区神田小川町)に移住した。農商務省の地質調査所で下働きをするようになり、海外事情に関心を持った。95年の台湾領有後に基隆に渡り、西澤商店を開いて浅野セメントの台湾代理店になって事業は一気に飛躍していく。

西澤吉治(松丸雅恵さん提供)
西澤吉治(松丸雅恵さん提供)

明治に始まった日本の「南進」は台湾領有のあと、台湾を「飛板」としてさらに南に向かった。東沙諸島はかねてから中国の漁民の立ち寄り地として利用されていたが、明治維新後に水谷新六という人物が日本人で最初に上陸し、島に豊富に埋蔵されるリン鉱石の存在を知った。水谷新六は台湾に行き、開発話を西澤吉治に持ちかけた。

台湾でのビジネスが軌道に乗っていた西澤吉治は「大博打(おおばくち)
」を打つことにした。1907(明治40)年、数百人を引き連れて、島に乗り込んだのだ。島では「西澤憲章」という生活や労働の規則を設け、西澤島通用引換券と呼ばれる通貨まで発行し、400人に達したとされる日本人、台湾人、中国人らの労働者をまとめあげた。

だが、行動が派手だった分、清朝の注意を引き、島の返還を要求されることになる。中国内の反日感情の高まりに配慮した明治政府は清朝の訴えを認めた。島から追い出された西澤吉治への補償はわずか10万6000円。台湾で貯めた資本をつぎ込んだ賭けは敗けとなり、手元には負債だけが残った。

雄飛する西澤吉治の子孫たち

西澤吉治はその後も冒険的なビジネスを試みるがうまくいかず、日本帰国後も家族の元にはなぜか戻らず、伊豆の寒村で人生を終えた。財産といえるものは何一つ残さず、まさに破天荒の一生だった。

一方、その子供たちは大きく羽ばたいた。西澤吉治には3人の息子がいたが、長男の西澤基一(もといち)は日本統治下の台湾で農業を学び、戦後は農業経済の専門家として業績を残した。次男の西澤隆二(たかじ)は日本共産党草創期の活動家で、戦前に11年にわたって投獄され、戦後は徳田球一とともに中国大陸にも渡った。「ぬやま・ひろし」のペンネームで詩人としても名を馳せ、司馬遼太郎と深い交流があり、司馬の自伝的エッセイ『ひとびとの跫音(あしおと)』のなかで親友「タカジ」として詳しく人物像が描かれている。

三男の志摩三(しまぞう)は松丸家に入婿(いりむこ)し、著名な農民活動家として全国を遊説して回った。彼も詩人でもあった。松丸さんはその志摩三の長男にあたり、文筆の才を受け継ぎ、俳句をたしなんでいた。