人生の再起をかけて台湾へ赴く

木下と台湾との出合いは37年前にさかのぼる。学生時代の1980年に1カ月半ほど台北に滞在したのを皮切りに、出入国を繰り返しながら、学生時代の1年半を戒厳令下の台湾で過ごした。84年の春、卒業を控えた木下は「決別の思い」で台湾を後にするが、その後、商社勤務、起業を経て、89年、人生の再起をかけて再び台湾に舞い戻る。大したあてもなかったが、台北到着の翌日にはかつての友人のつてで、大学語学センターで日本語教師としての採用が決まった。運も味方した。

社長業は順調だが、小説が書けない

戒厳令が1987年に解除され、続く李登輝総統の登場で、台湾の社会は民主化に向けて大きく動き出していた。土日も返上し、早朝から深夜まで寝る間も惜しんで働いた。学生からの評価も高く、大学からの信任も厚かったが、2年ほどたった91年に次の転機が訪れる。台湾観光協会から日本向け月刊誌『台湾観光月刊』が発行されることとなり、その編集長として木下に白羽の矢が立った。雑誌ではライターとして自ら執筆も担当し文章力が磨かれた。この仕事は99年までの8年間、木下が独立して編集プロダクションを立ち上げるまで続いた。立ち上げた会社の経営は、台湾、日本双方の顧客に恵まれて順風満帆だった。しかし、1年ほどたつと木下は違和感を覚えるようになる。仕事がどんどん社長業に傾き、創作から遠のいていく自分に気付いたのだ。

小説家を志してから10数年、外国人として初受賞

実は起業する2、3年前から、さまざまな制約の中で記事を執筆することに不自由さを覚え始め、自身の気持ちが小説の創作へと向かっていたのだった。木下は経営者としての自分にあらがうように、小説の研究に没頭し始める。

「小説は雑誌の記事とは、使う筋肉が違います。そこで、自分の好きな作家の作品を丹念に読み込んで小説を書く技術を分析しました。たとえば、過去形と現在形の使い方、主語の省略の仕方、一つの文の長さがどうなっているのか、そういった研究を重ねました。」

2002年、単行本としては初めての著作となる『台湾旅行術』(総合法令出版社)を出版した木下は、これを「卒業論文」と位置付け、観光関係の仕事に区切りを付けた。そして、03年には、某出版社の新人賞に応募する。惜しくも最終選考には残らなかったが、1200件の応募作の中から90件の一次選考に残ったことで手応えは感じた。しかし、その後は再び生活に追われる日々が5年ほど続く。

「小説を書いている時はお金にならない。書かなくても誰も文句は言わない。どうしても目の前の仕事を優先させてしまっていたのです。このままでは小説家の道は閉ざされるとの危機感を抱いた結果、2年をめどに台湾での生活を畳んで、日本で小説の執筆に専念しようと一大決心をしました。」

しかし、台湾と木下との縁は簡単には終わらなかった。程なく台湾の友人から「台北文学賞」の存在を伝えられた。日本に帰国してしまったら、この賞に応募する機会はまずないだろう。そう思うと「創作脳」がむくむくと頭をもたげた。中国語での執筆だったが、ただ小説を書きたい一心で『蒲公英之絮』を完成させた。結果は見事に11年の台北文学賞を受賞。長年の夢がかなった瞬間だった。小説家を志してから10数年の歳月が流れていた。

「高いハードルを一つ越えると、その先は自然とチャンスが広がる」という木下に、台湾で最大発行部数を誇る新聞『自由時報』の文芸欄でのコラム執筆が決まり、13年にはエッセイ集『随筆台湾日子』として出版される。新聞の文芸欄が作家の新作を発表する場でもある台湾で、木下は職業作家としての道を着実にステップアップさせていた。