基地問題にはもともと保守も革新もなかった

宮城 ここに来て「オール沖縄」という形で「現行案」に対する反発が高まっている。これはどういうふうに理解すればいいのか。

平良 沖縄内部の政治構造の変化を見る必要がある。沖縄では1960年あたりから本土から保革対立の枠組みが入ってくるが、この保革対立の政治構造をより仔細にみると、地域レベルの問題では保革が連携できる基盤のようなものがもともとあったことが分かる。

国家レベルの問題では、日米安保条約、米軍基地、自衛隊の存在をめぐって保革が対立するが、しかし地域レベルの問題では、基地の整理縮小と経済振興をめざすという意味では、両者の間に大きな違いはない。この点の理解が重要で、保守は「経済」、革新は「基地」や「平和」といった単純な分け方をすると、沖縄政治を捉え損なってしまう。

ただ、そうはいっても、保守は「経済」をより重視し、革新が「基地」や「平和」の問題をより重視したことは間違いない。だから、沖縄を取り巻く「現実」そのものが変わっていけば、つまり「基地もなく、豊かな沖縄県」という「理想」に近づいていけばいくほど、両者の距離が接近してくるのは、ある意味で自然なことだ。

米ソ冷戦の終結後、基地返還の可能性も見えはじめ、しかも経済振興によって基地への依存度も徐々に減っていったことから、保革がともに基地経済からの脱却と基地の整理縮小を現実の課題として射程内に入れ始め、両者の距離は事実上接近してくることになる。そうした沖縄内部の変化をまずはおさえる必要がある。

経済と基地の交換に固執する本土政府

遠藤 日本政府は、ずっと保守政権が続いてきた。沖縄復帰に向けてエネルギーを注いだ保守政権は、沖縄復帰後、基地問題そのものを解決するよりも、基地を引き続き沖縄に引き受けてもらう代わりに経済振興に取り組むという方法を採用してきた。基地固定化の代わりに行う経済振興の受け皿としての沖縄の保守勢力に肩入れしてきた。戦後日本を牽引してきた開発主義を沖縄に関しても集中的に展開する時に、沖縄にも保守勢力が必要だったということだ。

現状を見るならば、翁長雄志(おなが・たけし)新知事は保守で、翁長支持者も本来的には保守勢力という点に注目する必要がある。そして、沖縄の中の保守勢力が新基地反対を主張している現状は、「経済振興策を展開するから基地の問題では辛抱してね」という方法論が行き詰まっていることを示している。

経済面で見ると、例えば、沖縄を観光地として売り出し、リゾート開発などを行ってきたわけだが、一方で、基地を辛抱してもらう代わりに注ぎ込んだ資金でできた公民館のような箱物は、一時的に建設業界を潤すかもしれないが、結局のところ維持費がかさんで自治体財政を圧迫するし、経済的に見て持続的な開発にはつながらないことが明らかになった。そして、リゾートとしての沖縄が価値を高めていくと、基地の存在そのものはむしろ沖縄の経済的発展や自立にとって障害となるという理解が広がっている。

実際、基地跡地が返還されたところでは、新たな商業機会が生まれ、雇用が生まれるなど、プラスの経済的波及効果が大きいことが統計的にも実証されてきた。基地から得られる地代所得は波及効果が小さいのに対して、跡地を有効に活用すればその数倍の利益を生み出すことができる。つまり、基地に依存して何とかやっていくのではなくて、基地がなくとも繁栄できる、あるいは基地をなくした方がより大きな利益が得られることが示されてきたわけだ。こうした実例を基礎にして考えていけば、基地受け入れと開発の交換ではなく、基地返還と開発の両立でより大きな利益が得られるという点で、沖縄の人たちがまとまってきた。つまり、保守と革新の間には以前ほど強い対立がないということになっている。それが今の沖縄の姿ではないのか。

つまり、沖縄では、復帰以降の開発主義体制を脱した新しい方法の模索を、実績に基づいた形で展開しようとしてきた。そうした潮流が翁長知事の下で顕在化してきた。したがって、現在の沖縄が、純粋に基地問題として、海兵隊基地の撤去を求めているのみならず、経済的な利益の観点からも基地を障害と捉え、経済と平和という両方の観点から基地なしでやっていきたいと言っているのは、それなりに強固な基盤がある。

それにもかかわらず、本土の側は依然として、基地受け入れと開発の交換という古いやり方でいけば沖縄は黙らせることができるという姿勢でいる。そして、沖縄に定着してきた新しい潮流には耳を貸さないという姿勢を取っている。

つまり、沖縄の中で保守と革新が一体化していくプロセスが進行しているのに、本土の政府のやり方は全く変わらない。本土の旧来の論理は、もはや説得力を失っているということに気づきもしない。あるいは気づいていても、気づかないふりをして力で突破しようとしている。こうした形で本土と沖縄との関係が行き詰まってきたのだと考える。

ターニングポイントとなった少女暴行事件

宮城 おっしゃるように、構造的に行き詰まっていたものがあると思う。結果としてその「瓶の蓋」を抜いたのが、少女暴行事件であり、その後の普天間飛行場返還であった。普天間についていえば、もちろん返還はされたほうがいいのだが、一番の難題であるはずの「代替施設」について詰めないまま劇的なトップダウンで決定という「演出」が採られた。これは決定した橋本龍太郎首相自身、非常によく分かったうえでの一種の賭けだった。

沖縄県内での移設は本当に難しい。那覇軍港(那覇港湾施設)のように、何十年たってもそのままというのはごろごろしているわけで、橋本氏ほどの政策通の人ならそのことを熟知していただろう。しかし当時は大田昌秀知事の土地収用契約延長の代理署名拒否があったので、あのままいくと翌年には嘉手納をはじめ不法占拠状態が発生するという中で、沖縄の空気を変えるような劇的な手段が必要だと考えた上での決断であったといえよう。

一方で、橋本首相・モンデール駐日米大使による96年4月の普天間返還発表時には、「代替施設」については、沖縄の既存の基地内へのヘリパッド建設と部隊の本土などへの移設分散という話だった。それがどのような力学によるものか、瞬く間に長大な滑走路という話に拡大し、それをどこに持って行くかで橋本首相は悩んだ末に、海上浮体構造物という案に乗ったりした。

従来の日本政府の「沖縄政策」が潜在的に行き詰まりつつあったわけだが、それが普天間移設という非常に個別具体的な問題によって、一挙に全面化してしまった。