明治から大正にかけて、瀟洒(しょうしゃ)な別荘地だった神奈川県西部の小田原の地。英国留学経験のある侯爵が心と体を休めた別邸「清閑亭」は、現代人の心も癒してくれる空間。
JR・小田急線の小田原駅から「清閑亭」まで、歩いて約15分。バスやタクシーもあるが、できれば小田原城と城址公園の中をゆっくり抜けていくことをすすめたい。道のりそのものが美しい序章になる。
清閑亭の敷地は、400年前に北条氏が築いた小田原城の三の丸城外郭土塁、つまり国指定史跡の一角にある。歴史の重みの上に、国の登録有形文化財の建築の価値が重なる、稀有な場所というほかない。
邸内の座敷を活用した和食店や蔵カフェでは、小田原市自慢の食材を使った料理やスイーツがいただける。東京駅からJR特急踊り子号で約1時間、JR東海道線なら70分。歴史と文化と美味、その三角形を味わう小さな旅に出かけてみよう。
秋の午後、門をくぐり、玄関へと続くゆるやかな坂をのぼる。まず迎えてくれるのは伝統の小田原提灯を使った門前の飾りだ。
建物の造営は1906(明治39)年。清閑亭は旧福岡藩主・黒田家の当主である黒田長成(ながしげ)侯爵の別邸として建てられた。長成は織田信長、豊臣秀吉のもとで活躍した天才軍師・黒田官兵衛の直系にあたる人物だ。
白い暖簾(のれん)をくぐると、スタッフに迎えられる。1階から2階まで15分ほどで案内してくれるガイドツアーが1時間おきに催されている。土地の歴史と文化に通じたスタッフの話を聞きながら、邸内を楽しんでほしい。
なにしろ、この屋敷には不思議が多い。伝統的な建築の中に混じる革新的な要素。茶室なのにフローリング。高台で見晴らしがいいのに、庭に松の木を植えて海を隠している。2階の主座は、あえて縁起が悪いとされる西向きだ。黒田長成はいったい何を思ってこの家を設計したのだろう。ガイドツアーのスタッフが謎解きをしてくれる。
茶室では抹茶ではなく紅茶を
長成は英国ケンブリッジ大学に学び、英国文化の薫陶を受けた。邸内には彼の美意識がちりばめられている。
たとえば、水屋とそれに隣り合う茶室である。茶室はなんと板張りの洋間だ。伝統的な茶室にならって杉皮を網代に編んだ天井を、西洋のヘリンボーン柄に見立て、そこにシャンデリアを下げた。留学を機に紅茶文化に触れた長成は、茶室をティールームに読み替え、イングリッシュティーのもてなしの空間を創出したのだ。
もっとも、これは単なる趣味の話だけではなかったらしい。
「黒田長成は30年にわたり貴族院の副議長を務めました。党派や勢力に偏ることなく、中立を保つ重責を担っていたのです。当時の小田原には、茶の湯を通じて政財界の要人が結びつくサロン文化がありました。その力学に傾くことを警戒して、政治色の薄いティールームにしたと推測されます」とスタッフは語る。この中立的にして柔軟な身のこなしは、黒田家の祖・官兵衛の教えにも通じるという。
松に白薔薇、時代を超えた絵師の共演
邸内は座敷ごとに天井や床の意匠が異なり、欄間や建具など細部の趣向が光る。レストランとして使われている一室の杉戸に注目したい。黒田家が江戸時代後期から使用していた一枚板の杉戸である。
最初に描かれていたのは松と孔雀(くじゃく)だったという。長成はそこに英国を象徴する白い薔薇(バラ)の花を描き加えさせた。絵の具の彩度も厚みも異なるのに違和感なく眺められるのは、この邸宅全体に満ちている気品のおかげだろうか。
一方、黒田がダイニングルームとして使っていた部屋の襖絵は、リノベーションの際に現代の絵師が描いたものだという。
心を休める目隠しの松
階段を上がった座敷には、床の間が西向きにしつらえてある。伝統的な家相の観点からは縁起が悪いとされる造りだが、黒田家には縁起よりも大切な理由があった。
床の間を背にして座った主人の視界に入るのは、石垣山一夜城。豊臣秀吉が小田原攻めのために築いた、伝説の城である。この戦いで黒田官兵衛は小田原城へ乗り込み、北条氏と交渉して無血開城を成し遂げた。その功こそが、黒田家の繁栄の礎となったのだ。
一方、海の眺望も本来なら見事なはずだ。しかし、庭の松が視界をさえぎって、水平線は細切れにしか見えない。建築当時、海へ続く一帯には伊藤博文や山縣有朋ら、政財界の顔なじみが別荘を構えていた。貴重な休日くらいは政治の気配から離れていたい。長成はそう考え、海の光景に松の枝でそっと目隠しをしたのだという。
明治時代から大正時代にかけて、小田原は屈指の高級別荘地だった。その背景には、海と山に囲まれた豊かな自然、温暖な気候、東京からほどよい距離、そして明治天皇の小田原御用邸が開かれたというステータスがあった。幕末からの世界の激変と2つの戦争をくぐり抜けた明治の政財界人たちは、疲弊した心と体を休める保養地を求めていた。黒田長成もその一人だったのだ。
蔵カフェでオリジナルスイーツを
屋敷に寄り添う蔵は、1941年に2代目主人となった浅野長武侯爵(東京国立博物館長などを歴任)が建てたものだ。浅野長武は太平洋戦争中に疎開先として家族とともに清閑亭に移り住み、その家財を納めるために蔵を必要とした。
蔵内のカフェでいただける名物のひとつは「季節のフルーツすすり餡子(あんこ)」。白あんを生クリームなどと合わせ、なめらかなペースト状に仕立てている。旬のフルーツや白玉の盛り合わせに、その「すすり餡」をとろりとかけて楽しむ。粒あんの甘さを苦手とする海外からのお客さまにも好評のスイーツだ。
「清閑亭プリン」は黒田侯爵が愛したイングリッシュティーを使ったプリン。上品な紅茶の風味を、オレンジソースのみずみずしい香りがひきたてる。
この蔵にも小さな謎ときがある。内部の壁の杉板には、格式にふさわしくない節が目立ち、いかにも疎開先の急ごしらえといった造りなのに、蔵扉だけは分厚い土蔵造りだ。その理由は「たとえ蔵から火災が起きても、隣に建つ黒田家の母屋へ燃え移らぬように」とスタッフ。守るべきものが通常とは逆になった蔵である。
戦後の清閑亭は、半世紀にわたり大手生命保険会社の第一生命の迎賓館・保養施設として利用された。2008年に小田原市が建物を取得し、22年まで一般公開。そして24年、歴史的建造物の維持管理費を確保し、持続可能な形で後世へ継承するために、公民連携のレストラン&カフェとして、あらためて私たちに開かれた。スタッフは毎朝毎夕、数10枚におよぶ雨戸を時間をかけて開け閉めしながら、この歴史的建造物を大切に守り続けている。
松の枝ごしに、海の遠い気配だけを感じる午後がある。かつて侯爵がイングリッシュティーをふるまった部屋で、100年前にティーカップとスプーンとがたてた小さな音を想像する瞬間がある。白い暖簾をくぐれば、そのどちらにも出会えるはずだ。
(写真は全て筆者撮影)
小田原別邸料理 清閑亭
- 住所:神奈川県小田原市南町1-5-73
- 電話:050-1809-2213
- 営業時間:蔵カフェ 午前11時~午後5時(予約不要)、小田原別邸料理 午前11時~午後3時、午後5時~午後9時 (昼・夜ともに要予約) ※歴的的建造物の維持・保存のため、1人550円を施設協力金としてご負担ください
- 定休日:公式サイトでご確認ください
- アクセス:JR・小田急「小田原」駅より徒歩15分
- 公式サイト:https://www.seikantei.jp/










