再評価に70年もの月日がかかる

立石鉄臣は、時代によって作品の方向性が変わる作家で捉えどころがないが、どの時代の絵も一度見たら忘れられない魔力がある。共通するのは、対象の中に見付けた面白さや美しさの全てを絵で伝えたいという欲求と情熱だ。

立石が戦後から70年もの間、日本の画壇の中で無視されてきたのは、戦後日本人の台湾に対する態度と無関係ではないのかも知れない――16年のドキュメンタリー映画「灣生畫家 立石鐵臣」を見ながら、ふと思った。

台湾をはじめ、朝鮮や満州などの「外地」の美術の流れを抜きにして、日本の近代美術史を語ることはできない。しかし、この70年間に日本近代美術史で台湾の位置付けはいまだになされていない。理由の1つは、引き揚げ時の荷物制限から、戦前の台湾で評価された作品が残されていないことが挙げられる。しかしもう1つ、画壇という名の日本人社会が、「湾生」という存在、ひいては台湾から目を背け続けたことに、原因があるのではないかと考えた。

引揚げ以降、立石は二度と台湾を訪れていない。台湾に対しては激しい思慕を抱きながらも、それを閉じ込めざるを得ない屈託の中で戦後を生きていたのだろう。

『民俗台灣』で立石が連載していたコラム「台灣民俗図絵」より「打綿被」(ふとん打ち)、1941年(提供:映画「灣生畫家 立石鐵臣」)

東日本大震災以降の日本社会で台湾への態度は大きく変わった。毎月のように雑誌で台湾特集が組まれ、台湾に関する本が出版され、大なり小なり毎日のようにテレビで台湾が取り上げられる。かつてはお世辞にも良いとは言えなかった台湾のイメージが「おいしい・楽しい・癒し」へと変わり、その距離は戦後もっとも縮まっていると言っていい。

日台のはざまでひそやかに絵を描き続けてきた湾生画家の立石鉄臣。その作品にある台湾の痕跡は、まるで70年という歴史の泥の中から砂金のように浮かび上がってきらめく立石の台湾への思いのようだ。

参考文献

『灣生・風土・立石鐵臣』邱函妮、雄獅美術、2004年
「立石鉄臣展——生誕110周年」立石雅夫・森美根子・志賀秀孝の論考より、泰明画廊、2015年
「立石鉄臣展——麗しき故郷『台湾』に捧ぐ」府中市立美術館、2016年

バナー写真=1935年の台湾での展覧会にて。左から5番目の、斜め上を見ているような背広の人物が立石鉄臣。その右前で腕を組んでいるのは梅原龍三郎。右後ろに陳澄波がいる。(提供:陳澄波文化基金会)