禁止すればするほど広がっていった日本の歌謡曲

台湾のお年寄りがこんなにも一昔前の日本の歌に思い入れを持ち、とりわけ公共の場で歌うのを好むのは、どうしてだろうか。ぼくの見解では、好きな歌を思いきり歌うことが彼らにとって「自由」を象徴する行為だからだ。そして一人ではなく、同じ背景を持つ人々と一緒に歌ってこそ、自由の喜びを分かち合うことができる。この感覚は日本語で教育を受けた世代のみならず、1970年代以前に台湾で生まれ育った多くの台湾人の間にも、多かれ少なかれ共有されているのではないか。

1949年5月、国民党政府により台湾で戒厳令が布告され、その後実に38年の長きに渡り、台湾の民衆は極めて息苦しい生活を強いられてきた。言語に関しては日本語の禁止は無論のこと、台湾人口の大多数を占める庶民の母語である台湾語や客家語、台湾先住民諸語も大きな制約を課された。台湾語は福建省南部で話されている閩(ビン)南語から派生した言語で、北京語を基礎にした中華民国の公用語「国語」とは意思疎通もできないほど大きな隔たりがある。戒厳期の学校では「国語」の使用が徹底され、台湾語を話した子どもは罰金を科せられたり、「二度と台湾語を話しません」と書かれた札を首から掛けさせられたりした時代もあった。

台湾語歌曲のレコードは出回っていたが、内容に問題ありと判断されると、「禁歌」として聞くのも歌うのも禁じられ、違反すれば罰されて思想教育を施された。「賣肉粽」(粽[ちまき]売り)という生活苦を描いた歌は政治批判という理由で、上述の「黄昏的故郷」は曲調が日本的で兵士の郷愁を誘いかねないという理由で、さらにザ・ピーナッツ「情熱の砂漠」を歐陽菲菲がカバーした「熱情的沙漠」は「国語」の歌ながら、曲中に挿入される声が下品だとして、それぞれ禁じられた。

こうして禁歌に列せられた歌は、およそ900曲にも上る。

同時代に日本で流行した歌謡曲は呉晋淮、文夏、洪一峰ら日本での音楽経験を持つミュージシャンによって台湾語に訳され歌われた。日本ではほぼ人々の記憶から消えている歌が、異郷の台湾で今なお脈々と歌い継がれている例は多い。先に挙げた「快樂的出帆」もその一つ。あずまやで聞いた「にぎる拳に・・・」は、北原謙二「夢で泣け」という66年の歌で、「恨世生」「愛甲恨」「昨夜夢醒時」などいくつも翻訳版があり、現代台湾の人気歌手である伍佰もカバーしている。