八重山におけるアワ栽培の移り変わり
八重山の豊年祭で人々が神に祈るのは「五穀豊穣」。石垣市教育委員会の調査によると、シカの豊年祭で供物としてささげる五穀はアワのほかに、稲と麦、コウリャン、芋。ただ、アワなどは次第に栽培する人が減り、祭祀のために作付けて準備するようになった。しかし、この方法も行われなくなり、調査をした1999年はシカとは異なる地域の人から提供を受けたアワを使った。
八重山の農業を記録した資料としては、1477年に与那国島に漂着した済州島民からの口述記録がある。与那国に流れ着いた後、人々は南西諸島を島伝いに北上して首里王府に送り届けられ、朝鮮へ送還される。立ち寄った島々の様子が記されている口述記録によると、与那国と西表には米とアワがあり、波照間(はてるま)、新城(あらぐすく)、宮古地方の宮古と伊良部(いらぶ)にはアワに関する記述がある。
八重山ではその後、米の栽培が徐々に広がり、日本統治期の台湾から導入された蓬萊(ほうらい)米も根付いた。アワは米に取って代わられるのである。
