博士論文、香港総領事館専門調査員、助教授昇任
数年後に修士論文の審査委員でもあった衛藤瀋吉先生からアジア政経学会の現代中国叢書で何か書いてみろと勧められた。実にタイムリーな依頼でありがたかった。そこで、当時は国会図書館勤務だった春山明哲さんと語らって2度目の訪台の後に『日本植民地主義の政治的展開 一八九五―一九三四年』を出した。春山さんは「近代日本の植民地統治と原敬」を書いた。この論文は後に台湾植民地支配をめぐる政治史研究に一画期をなすことになった。私は「大正デモクラシーと台湾議会設置請願運動——日本植民地主義の政治と台湾抗日運動——」という、これも長編の論文を書いた。
私の論文は、植民地時期台湾の代表的政治運動である「台湾議会設置請願運動」についてのものであった。植民地台湾から東京の帝国議会に提出された請願がどのように扱われたのかを請願委員会の議事録を調べ、それを軸に「大正デモクラシー」と戦後に名付けられた時代環境の中でこの植民地住民による民権運動がどのように位置づけられたかを示そうとした。論文準備のため国会図書館で帝国議会議事録を閲覧する必要があったが、図書館に行くたびに昼休みに春山さんを食堂に呼び出しては、研究上のよもやま話に興じたのは、今思い出しても楽しい思い出である。
私はこの論文より前に、戴國煇さんを中心に運営されてきた研究グループで出していた『台湾近現代史研究』の第2号(79年刊行)に「黄呈聡における『待機』の意味——日本統治下台湾知識人の抗日民族思想——」を発表していた。この論文やその他を入れると、台湾共産党から穏健派の台湾議会設置請願運動まで20年代の植民地台湾政治運動を左から右までカバーすることになったので、それを一書にまとめることを思い立ち、これも戴國煇さんの紹介で研文出版から『台湾抗日運動史研究』を83年に上梓して、85年にはこの一書を以て論文博士を申請した。たいへんありがたいことに、同コースの平野健一郎先生が主査の労をとって下さり、無事学位を得た。当時私の属した国際関係論コースは、東大の社会学研究科に属していたので、内実は伴わないが、私は「社会学博士」ということになった。
これより先、私は85年1月から日本政府の香港総領事館で専門調査員を務めることになり、4月からは一家揃って香港暮らしとなった(家族は5人に増えていた)。1年以上職場を離れるので、休職とはなるものの復帰はできない含みで事実上辞職しての赴任だった。つまりは背水の陣だったのだが、実のところそんなに悲壮感があったわけではない。香港赴任については、ご自身も専門調査員の経験があり、当時中国ウォッチャーとして活躍していた横浜市大の矢吹晋先生の御推挽(ごすいばん)があったと聞いている。
一家で香港生活を送っているある日、東大の中国語教室の高橋満先生から国際電話があって、中国語履修者の急増に対応して中国語教員の枠が増えたので私の採用人事を起こすという。大分後になって漏れ聞いた話だが、人事選考委員会では「博士学位を取っているから問題無い」との委員の発言があり、すんなり決まったとのことである。かくして、86年3月香港の暮らしを切り上げ、4月から東大教養学部の助教授となった。自力プラス周りの方々の後押しもあって、やっと落ち着いたわけである。
今この頃を振り返ると、節々でお世話になった方々の名前がしきりに思い浮かぶ。当時は夢中だった。折々にちゃんとお礼を述べてきただろうか、曖昧になる記憶ととともに一抹の不安も頭をよぎるが、ありがたかったと思う気持ちもまたひとしおなのである。

