野球とほぼ同時期に日本から台湾に渡ったラグビー
「橄欖球世界盃/日本晉級8強 寫歷史新頁」(ラグビーワールドカップ/日本8強入り 歴史に新たな1ページを刻む)
日本チームが初の決勝トーナメントに進出した快挙は、翌日の台湾の新聞でも大きく報道され、台湾のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)上で日本チームの戦いぶりから勇気をもらった、という書き込みが見られた。父を知る年配の台湾人たちからもお祝いの連絡が続々と届いた。
ラグビーは中国語で「橄欖球(ガンランチウ)」、台湾語で「橄仔球(kan-ná-kiû)」と書く。ラグビーボールがオリーブの実の形に似ていることから、オリーブの中国語「橄欖」の名を取って付けられた。直訳なら「オリーブボール」。なんだかおいしそうな感じがしないでもない。
日本統治時代の台湾には、インフラや農業の他に、日本から持ち込まれて定着したものが多くある。そのひとつが「スポーツ」だ。代表的なものとして「野球」があるが、「ラグビー」もほぼ同じ時期に、日本から台湾に渡っていた。
日本にラグビーが伝わったのは1899年のこと。慶應義塾大学で、英語教師として新任した英国人のE・B・クラーク(Edward Bramwell Clarke) と、英国のケンブリッジ大学に留学し、ラグビーを体験したクラークの知人、田中銀之助が塾生に指導したのが始まりだとされている。
そこで塾生としてラグビーを学んだ松岡正男が1913年ごろ、台湾にラグビーを伝授したとされる。青森県八戸市生まれの松岡正男は台湾総督府通信局に招聘(しょうへい)され、仕事の合間に台北第一中学(現・建国中学)で主に日本人生徒を相手にラグビーを教えた。松岡正男は後に戦前の新聞「時事新報社」の社長も務めた。
初期の台湾ラグビーチームの選手は日本人ばかりだったが、やがて、ラグビーを日本で覚えた台湾人たちも増え、台湾でもラグビー文化が少しずつ広まった。そこに登場したのが、台湾ラグビーの先駆者、柯子彰(1910~2001)である。
2003年のことだった。台湾を訪れた後の日本ラグビー協会名誉会長で、ラガーマンでもあった森喜朗元首相は、真っ先に台北・淡水に向かった。そこに柯子彰の墓があるからだ。森元首相の父・森茂喜は柯子彰と同年に生まれ、早稲田大学ラグビー部の仲間であった。2人は特に仲が良く、柯子彰は森家によく遊びに来ていたという。青年時代の森喜朗に対し、いつも励ましの言葉を掛けてくれた柯子彰を森元首相はとても慕っていた(金美齢氏の公式ホームページなどより)。



